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【全文無料】哲学をしよう

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始まりました。皆さん、おはようございます。葛原学習研究所パーソナリティの葛原祥太です。このチャンネルでは「学ぶって何?」「考えるって何?」「生きるって何?」といった教育に関わる根本的な問いに向き合い、一つずつ答えを紡ぎ出していくチャンネルになっております。教育について興味があったり、考え直したいという方はぜひ聞いてください。

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『ゆるアツ』理論の基本概念:『ゆる』の重要性

さて、何かの拍子に「思い通りにならない子に対してどうするか」という話をしてきました。(学級を荒らすレベルの子にどう関わるか難しいと言われる"高学年女子"への関わり方)これは「ゆるアツ」という、私が提唱している学級経営論というものがあるのですけれども、気になる方、興味がある方は「ゆる」は平仮名、「アツ」はカタカナの「ゆるアツ」という言葉でX検索していただけると、ハッシュタグ付きのものを検索していただけると関連のツイートが出てきますので、お読みください。

これまでの話は「ゆるアツ」で言うところの「ゆる」の話なのです。人と人として対等に向き合うとか、溶かしていくということです。その中で、人間としての気持ちのこわばりのようなものを柔らかく、可変可能な形にしていくと、子供たちはいろんなところに成長の種を見出しながら、変化していったりします。これが学級経営の根幹であり土台です。これがないと先に進まないのです。

教科担任制の課題:情緒的つながりの観点から

そういう意味で、小学校の教科担任制やチーム担任制について考えてみましょう。私としては危惧していることがあります。やったことがない意味でネガティブなことを言うのも違うかとは思いますけれども、「逃げ」になってはいけないと思うのです。学級経営が大変だからとか、学級崩壊した時にもうにっちもさっちもいかなくなるからという理由で、みんなで責任を分散しながら子供たちに向き合いましょうというのを知った時に、中学校でやるのと小学校でやるのでは訳が違うような気がしています。

小学校においては、感情的・情緒的なつながりというのがやはりどうしても大事なのです。それができない人が増えているという現状があるのはわかります。それができない人が一年その子と一緒に生活せざるを得ない状況を作ってしまうと、どちらに対してもマイナスに働きそうです。だから教員の質の担保というのは一方で喫緊の課題であり、それが解決できていないから「それならば全員で」という話はわかるのですが、その情緒的なつながりという意味でどこまでそれが実現し得るのかということも実は心配になります。これが「ゆるアツ」というところの「ゆる」の心配です。

『ゆる』だけでは不十分:成長のための方向性の必要性

今回の放送は「ゆるアツ」の「アツ」の方にフォーカスをしたいと思います。「あなたはあなたでいい」とか「人と人として対等だよね」とかそこばかり言っていたら成長がないのです。それって結構だらだらしてくるのです。それだけの場だと何をしていいか分からないし、どこへ行ってもいいし、別に行かなくてもいいしという具合です。「だって私は私で素晴らしいし、あなたはあなたなら素晴らしい」だけの空間って実は面白くなくて、慣れてくると結局またネガティブな気持ちが出てきて「どうでもいい」みたいになってしまいます。(全部いいね→全部どうでもいいね)

そこにエネルギーの持て余しがあれば、好き放題にしていいという環境において、エネルギーだけが膨大にあれば、そのエネルギーは自己中心的な、もしくは非社会的・反社会的な方向に出てしまう可能性があります。出ないこともあるでしょうが、出てしまう可能性もあります。そうなるとまたそこで不自然なほつれ、すれ違いのようなことが生まれてしまうので、そればかりではダメなのです。

「ゆる」は圧倒的に土台で最も大切なものではありますが、その先に「アツ」があります。学校教育ですから、村とは違います。村は村でまた別の話になりますが、「ゆる」だけでやるというのは学校教育のルール違反なのです。だって学校教育でしょう?という話です。

学校はどこまで言っても「来させて、やらせる」場所

そもそも学校教育というものは、地域の子供たちを問答無用でこの箱の中に詰め込みます。少なくともクラス替えに関してはほぼ問答無用です。誰の希望を取ったわけでもなく、相性の悪い子とか関係がもうほつれてしまった子は配慮するかもしれませんが、全員の希望を取りながらクラス替えをするわけでもありません。担任の配置についても同様です。どの先生がいいかというアンケートを取ってそれに応じた担任配置をしてる学校なんておそらくどこにもないでしょう。

その中で子供達はそれを押し付けられた訳です。時間割も問答無用です。ここも子供たちの希望は全く反映されません。どんな教科を学びたいですか?みたいなことは全く聞かれずに、この教科を学びましょうと言われているわけです。これは構造によって自動的に再生されてしまうのです。

この教室に入りなさい、この椅子に座りなさい、あてがわれた先生の話を聞きなさい。ここまで完全に問答無用に来させておいて、その上で「あなたはあなたでいいんだよ」というだけでは、これはルール違反ではないでしょうか?

では来たら何をするのか?もっと具体的に何をすればいいのか?ということは教師はちゃんと語らなければなりません。そこが教員免許を持っているということの責任ある行動として再生されなければなりません。この先やらなくていいなら近所のおじさんでいいわけです。「君はいいね、いいね」って言ってるだけのおじさんなのです。

その中で何に価値があって、どうすべきで、そうなるためにどのような活動が求められるのか?ということを徹底的に具体化して子供たちに手渡していくという存在が教師であるわけです。そこに「ゆるアツ」の「アツ」の効果が見られるわけです。

「アツ」といった時に、まず教師がこの価値について、人間界、人間文化、人類文明みたいなことが今までの歴史においてどのようなことを価値として感じており、どういう努力をしながらここまでの文化をつないできたか、文明をつないできたかということを、本当に普通に思考として必要で、納得として落ちていないといけないのです。

学校教育の2つの役割

教育には二つの役割があって、人間が今まで紡ぎ出してきた、つないできた人間としてのモラル、文明、文化みたいなことを保存、継承する役割というのがまず一つ、学校には必ずあるわけです。今まで人々が本当に大切にしてきて、当たり前のレベルを一つずつ上げてきて今の世界が成り立っているわけです。

特に日本なんて、犯罪率が外国に比べて明らかに低いわけです。これって重要な要素だと思いませんか?GDPが抜かれたとか、貧しいとかいろいろ言われますが、それも大切ですけれども、犯罪率です。街を歩いていて誘拐されない、襲われない、この安心がかなりのレベルで、世界一のレベルで保証されている国が今の日本です。それってそれだけにおいても、その一つの要素だけでも「どこの国に住みたいですか?」と聞かれれば「日本です」と答えられるレベルの強みだと私は思っています。これはものすごいことなのです。

これは確実に日本人が今までの文化の中からモラルを一つずつ世代継承しながら培ってきたわけです。これをちゃんと保存して次の世代に繋げる、その今目の前の子供たちの代もまたこの文化文明の中でちゃんと生きられ、安全に生きられるようにするというのは、公教育として必ず担うべきポジションであり役割であります。

もう一つが文化の創造ということです。これは、つまりこの文化文明というものは引き継いできた価値あるものでありつつも、また一方で徹底的に疑われ、徹底的に破壊されるべきものでもあるわけです。そうしないと進歩がなかったわけですから。今までの人類文明も確実にこれをやってきたのです。いいものは残し、悪いものは破壊するわけです。そのいいと悪いという判断基準すらも徹底的に考え尽くし、その良さというものを分解しては再構築し、今まで人類というものはやってきているわけです。

だからその上に立って、そしてそれを本当に今後の社会に引き継ぐのか、壊すのかということをやっている期間が学校なわけです。私はそう思っています。それの指針を学習指導要領というもので示されているのであれは確実に大切に読んでいかなければなりません。そんなのは一教師一人ひとりが勝手なさじ加減でそんな価値判断なんてできるはずがないし、やっていいはずがないのです。

そこには国としての指針というのがもうものすごく大切で、だから学習指導要領があって法律で決まっているわけです。それを軸に教育を展開しましょう。でもそれはまだ抽象的な文言だから、それを具体化する人として私たち教師、担任一人一人の教育者というものが存在しているわけです。

教育と哲学

このような全体構造の中で、しかもこういう長期的なスパン、人類文明という本当に私は大袈裟ではなくそう思っているのです。だから通常とても大事だと思っていて、このように人類の文明文化を支え得る思想的な背景というのはやはり哲学の分野が担ってきたのです。これまでも、そういう人たちが「良さって何?」ということです。「良いって何なの?」「より良く生きるってどういうことなの?」ということを本当に徹底的に考え尽くして論じ、描き、それを社会に伝播させて今があるわけなのです。

だから今までの人類の哲学的な思考の変遷というものは、これはおそらくだから全教師がちゃんと知っておかなければならないことであるような気がするわけです。それは西洋哲学だけではなくて東洋哲学でも全く同じで、アプローチが違って分析的に見るのか全体的に見るのかという違いがあるわけです。全体的・直感的に見るのか、分析的・論理的に見るのかということが洋の東西を分けるわけですけれども、この両面の視点においてちゃんと人類文化の価値、人類文化が価値に対する思考とか、この世界に対する思考というものを積み上げてきているわけですから、それを伝えるのは教師なのかという話なのです。(おすすめはこの本!)

教師の権力と哲学的思考の必要性

それは直接的に伝えるのではなく、本当にそういうものを背景に世界を見て、今までの思想体系がどのように変遷してきて、どのような世界として今人類は世界を見ているのかということをちゃんと見た上で、その見方で私は世界を見るし、アドバイスをするし、考え方を提供するということをやらないといけない。なぜなら、これをやらなかったら感覚的に、非言語のうちにそういうことを学習してはいるとは思いますが、ややもすると教師は本当に一方的に、独断的に振る舞ったりするではないですか。

これは言わば権力の暴走する姿で、その権力の暴走というものはもう人類史においてもう明らかに確実にたくさん経験しているわけです。一人に権力が集中すると暴走するのです。暴走した後、疑心暗鬼に落ちるのです。誰もが敵に見え始めるということは、もうどの独裁者も経験した末路であり、どの文明もこういうことを経験しながら、その分その権力の暴走を克服しようと思って民主主義を生み出したという背景があるわけではないですか。

もうちょっと別の視点から言うと、中世は本当に気に入らなかったら暴力的な手段によってそれを解決してきたわけでしょう。ですが、今でも殴ってしまう人もいますが、それって本当に人類文明のレベルから見たときに、もう数百万年レベルで遅れている行動基準なのです。それは「感情的になっちゃいけないよね」「気に入らない人を殴っちゃいけないよね」というやつです。それって本当に中世のレベルです。異教徒は切っていいみたいな時代があったわけです。

そのレベルで行動してしまっているのです。そこを克服するため、もしくは自分を省みてちゃんと価値判断ができるように“教育”を行うためには、やはり哲学を学ばないとどうしようもない気がするのです。その良さというのが何に根付いていて、どう良いのかということは、教師をするにあたってはちゃんと言語化しながら意識できないといけない。

結論:『ゆるアツ』における哲学の重要性

とりあえず、これが大事だろうという話はしていいというふうに思っているわけです。何の放送かわからなくなってきましたが、「ゆるアツ」の「アツ」を語ろうと思ったら「哲学しろ」みたいなことを言い出しましたね。ここが本当に根本の根本の根本だったりはします。また連続講座になりそうです。

頭の中はこのイメージで何回か話してみたいと思います。「ゆるアツ」、つまりは人達で何かを熱く求めるという営みの、その根本の根本の根本には、ちゃんと今までの人類文明が培ってきた思考体系と価値体系というものをインストールしないといけない。勝手気ままにあなたの良さを子供たちに押し付けていいはずがないのです。そういう自覚を持たないと、「ゆる」というものを駆動させることってなかなかできないのではないかな、という話が頭の中にあり、そういう経緯において哲学を学びなさいということを私は今言っているわけでございます。

次の放送では、もう少し具体的に「ゆるアツ」について話していきたいと思います。ではまた明日の放送でお会いしましょう。バイバイ。

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