【全文無料】学びに向かう力の「指導」無しに「評価」はできない(最終回)
けテぶれチャンネル始まりました。おはようございます。パーソナリティーの葛原祥太です。このチャンネルでは、「学ぶ」って何か、「生きる」って何か、「考える」って何か、といった教育の根本的な問いに向き合い、パーソナリティーである私が一つずつ答えを紡ぎ出していくチャンネルになっております。教育についてもう一度深く考え直したい方、是非聞いてください。ではどうぞ。
実践例:クラス自慢の活動
ということで話していきましょう。ちょっと前に、クラス自慢という国語の単元で、学校自慢をしようという単元があるんですよ。それを読み替えて、三学期の活動に向けてクラス自慢を、グループに分かれて発表するという参観参加日にしてはどうだろうか、という話になっておりまして、それに向けた動きをちょっとずつやっているんです。
まず第一段階として、あなたが思うクラス自慢をB4の紙に思いつく限り書いてください、という形で始めました。子どもたちが書いた情報をもとにグループ分けしたいと思うから、一旦出せるだけ出してください。大量に書いてもらっても結構ですよ、と言って紙を配って始めたんです。活動の最初の時間を使ってやったんですが、出るは出るは嬉しいですね。紙も目いっぱいになって、二枚目とか言ってる子もいて、もう本当に30分のはずが15分で終わるはずだったのが、20分25分くらいやっていましたね。もっともっともっとという感じで、時間が足りないという状況でした。
書いている内容は、かなり重複はしていたんだけれども、それを多くの子が自分の言葉で書けるというところにすごく頼もしさと嬉しさを感じながら見ておりました。
ということで今回は、学びに向かう力、主体的に学びに向かう態度の評価について話していきたいと思います。もう数日前に言われたそのコメントについて、こつこつともう四回連続放送でお送りしている訳ですけれども、それの締め括りですね。今日でやっとフィナーレを迎えられる訳です。話そうと思えばまだまだ話せることはたくさんありそうな気がするのですが、一旦締め括ろうと思います。
評価指標の可視化
それで何かというと、主体的に学びに向かう態度の評価軸、評価指標について、TwitterにXに画像を上げているんです。それは動画にも解説として上げているものがあって、私のツイートで「主体的に学びに向かう態度の評価」などで検索していただければ出てくるかなと思います。
それは、今までお伝えしているような粘り強さと学習を調整する姿というものの他に、マトリクスを想像していただければわかりやすいのですが、反対の姿ですね。粘り強くやれなかった姿と学習の調整に失敗した姿というものもちゃんと描いて四象限にして、そこで初めて自分が自分の学びに向かう態度を自分で評価できるようになるような指標として作りました。
評価における両輪の重要性
評価として大切な、評価を考える上で大切なのがここなんですね。まず自己評価と他者評価というのがあります。これは両輪にしないといけないんです。評価って考えた時に、それは先生が子どもたちに対して品定めをしてレッテルを張るような行為として捉えられがちです。そういうシーンが結構多いじゃないですか。指導者が学習者をただ品定めして線を引くような、言い方を悪くするとそういうことであるような感じがしているけれども、それはすごく一方的ですごく貧しいわけですね。
あなたから見た私はそうであるかもしれないが、私は違うと思っているかもしれないし、そこにずれがあったらその評価なんて子どもたちの学習のためにはならないわけです。「いや、俺はそうじゃない」って思っちゃったら、それまででしょう。それって評価としてはあまり教育的な効果を発揮していないんでしょう?ただランク付けされて終わりみたいな、そんなことになるじゃないですか。それは学習のための評価になっていない。
学習のための評価って何か、どうやって駆動させるかといったら、ちゃんとその評価軸が指導者と学習者の間で共有されて、同じ評価軸で指導者は学習者を見るし、学習者も学習者自身、自分自身をその評価軸で評価しようとする営みが大切なんです。
評価って難しくて、自分で自分のことってなかなかわからないじゃないですか。だから他者からの評価が必要なんだけれども、逆に言うと自分のことは自分が一番よくわかっているとも言えるわけです。ここが難しいんです。だから、自己評価が100パーセント正しいわけでもなければ、他者評価が100パーセントその子を描き出せるわけでもないわけです。だから両輪なんです。
自分も自分でその評価軸で自分の今の学びに向かう態度はこの辺だなって自己評価をすることができるし、それと他者からの評価、教師から「あなた今ここだよね」ということを確認した時に「そうだよね」って納得できる他者からの評価みたいなものが両輪で駆動しないといけない。それが揃った時に子どもたちはその評価を納得して受け入れられるし、ずれた時にはそのずれからまた思考が始まるわけです。
自分はこう思っているけど人からはこう見えているらしい。このずれはいかがなものか、どちらが正しいんだろうか、どちらのことが本質的なのだろうか、みたいなことを考えるわけです。教師からはこう見えているが、私としてはこういう理由でこうだから、確実に主体的に学びに向かえている、だから私の評価を採用する。あるいは、私はこう思っていたけど、教師からこう見えており、そう言われてみればそういう側面もあり得て、もしかしたらこうなのかもしれないと他者評価を採用する。これは二択です。これはどちらでもよろしいわけです。
ここから先に進むと、結局自分を見る目というのは、自分を自分が見たいように見るという発想になっていくわけです。その今日の自分の学びはどうだったかという問いに対して、自己評価と他者評価を両手に持ち、そのバランスポイントを自分で見つけて自分で確定していくみたいなことです。
主体的に学びに向かう態度を評価する、指導するみたいなことをした時に、目の前にいる学習者は学びの主体者なわけです。学びの主体者はやはり自分のことは自分でちゃんと規定していかなければならない。そういうことができて、そういう環境をちゃんと用意してあげないといけないわけです。
自分のことを他者からレッテル貼られてそれに引きずられる主人公なんていないわけです。自分はこうだってちゃんと自分で思えて初めて、その子はその子の学びの世界の中で主人公になり得るわけです。学びというのは生きることと同義概念なので、人生の主人公になるということです。
自己評価と他者評価を両輪として両方ちゃんと視野に入れた上で、自分としてはこのバランスポイントということをちゃんと探りながら自分を確定させていくという行為、そしてその確定させる行為を自らが経験することによって、この自己というものはかなり不安定で輪郭がぼやけており、かなり恣意的に自分がコントロールできるものなんだということを学んでいくという話ですね。
この辺が評価の核心に迫っていくことなんです。だからこのチャプターもしリンクを貼っていたら見てください。真ん中には「自分のことを知る」って書いてあります。これが核心です。評価を論じる時にはここが核心なんです。自己評価と他者評価というものを両輪にし、それらを両方視野に入れた上で、自分として納得できるバランスポイントを自分で作っていく。そしてそのバランスポイントを自分で崩しながら新たな軸を創造していく、こういう営みを支援できる、支援するものが評価という行為であり指導という行為である、みたいなことを目指したいわけです。
明文化された評価基準の必要性
そのためには、その評価軸を教師の頭の中から確実に出してこないといけない。これが人間で評価できるかということがちゃんとわかってないと子どもたちは自己評価できません。自己評価ってその好き勝手に評価するわけじゃないんです。学習が展開される世界においてどのような評価軸が存在しており、その評価軸に照らして自分はどうかということを見ていくわけです。
だからルーブリックが大切と言われるわけです。ルーブリックというものがあれば、観点とそのレベル別みたいな感じで表になっていれば、自分の観点、この観点においてはこれぐらいのレベルだなって見ることができる。大切なのは教師もその目線でちゃんと見ていく、同じ道具を使って同じものを見るということです。
自分で自分を見るのも教師が自分を見るのも、どういうメガネを使うかということがちゃんと揃っていないとそれは両輪にはできません。車軸がずれているわけですから。この車軸、つまり評価軸をしっかりと教師の頭から外化して共有した上でないとこれは成り立たないという話です。もうちょっと言うと、それができていない状態にあっては評価も指導もできないという話です。
子どもたちに主体性を求める時に、ちゃんとルールが明文化されていないと、結局子どもたちは教師の顔色を伺いながら教師にいちいち許可を取って、これは求められる行為なのかどうかということを教師にお伺いを立てながら生活する羽目になる。それでは合理的、論理的な価値判断、行動判断というのができないわけです。
この明文化されたルールの上ではこういうことになっているからこれは正しいだろうというのは、これは論理的に判断する姿になるわけですが、そういう評価軸がないのであれば、もうその自分の判断、自分の行動の価値は教師の頭の中にある謎の評価軸によっていいか悪いかが判断されているのだとしたら、もうそこに子どもたちは自分で考えようとする意欲なんて失うわけです。
だから先生に聞くんです。子どもたちはめっちゃ聞くでしょう。「先生、これしていいですか?」「これなんでですか?」これは評価軸がちゃんと共有されてないからです。
そういうものがずっと続くと子どもたちは主体者になりようがないじゃないですか。だってそこには暗黙知的なルールがたくさん存在しており、そのルールはなぜか担任教師によって少しずつ違っており、毎年それが変わっていくわけです。じゃあ聞くしかない、聞くしかないしもう下手な行動はしないという判断が最も合理的なんです。こういう場においては。だから子どもたちの主体性がない、この人たちは自分で動けないとか嘆いている暇があったら、頭の中にあるその評価軸をちゃんと共有してあげなさい。それがないから子どもたちは動けないんだよという話です。
結論:評価と指導の一体化
言いたいこと、この辺の評価回りに対して着地点、結論めいたものとして着地するのがこの辺になるかなということです。ちょっと内容が濃いのでこの辺で終わりたいと思います。
評価軸は確実に頭の中から出して学習者と共に共有しましょうということと、その共有をするのはなぜかというと、それをすることによって初めて学習者は自分で自分のことを見るという自己評価と、他者から自分のことを見られるという他者評価を両輪にして(その軸はその評価軸ですよ)、それを両輪にして、じゃあどちらを採用しながら自分はどういう自分像として自分を見ることが一番心地よく、また自分が進化成長できるための見方になるかなということを考えて、自分が自分でそのポイントを判断しながら進んでいくみたいなことを促す時に、この行為というのは指導であり評価であり、指導と評価が一体化された姿として現れるということを思っているわけです。
ではまた明日の放送でお会いしましょう。バイバイ。
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これらのデータは公立小学校の職員室内に限り、印刷配布OKです。
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