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上限の解放:けテぶれQNKS心マトリクスによる学習者の可能性の最大化

\イベントするよ/

けテぶれチャンネルが始まりました。パーソナリティの葛原翔太です。このチャンネルでは、全国の子どもたちが自ら学び、考え、生きられるための教育実践「けテぶれQNKS心マトリクス」についてお話をしていきます。

私が働いている西宮市では、職員卓球のような感じで職員がみんなで卓球をするという文化があるんです。コロナ前は学校対抗でトーナメントを組んでいたのですが、コロナでそういうことができなくなって、今は校内で年に一回卓球大会を開こうみたいなことがあるんです。それが先日ありまして、3年生チームは第三位になりました。しかも優勝した6年生チームに一番食い込んだのは私たちですから、なかなか実力を見せつけたわけです。

そんなことで楽しんだんですが、問題はその後です。次の日から腰が痛い、背中が痛いと言っていていいんでしょうか、36歳って。もっと元気なはずですよね、世の中の36歳は。これはライザ案件かもしれません。Twitterをやっている人しかわかりませんが、ライザ案件が発生しております。

一斉指導批判の振り返りと新たな提案

昨日の放送では、一斉指導批判というか、一つの授業ばかり磨いてはいけないみたいな話をしました。聞き直していて、少し言い過ぎたなと感じました。そういう努力は全然いいんですが、ベースに何をするかという話なわけです。磨き上げられた一時間が年に何回か散りばめられているのは素晼らしいことですが、磨けられていない他の数百時間がどうなっているかが気になるわけです。

私の提案は、全時間をアップグレードするための考え方や方法を発信していこうということです。昨日は最低限をちゃんと見極めましょうという話でしたが、それは実は結構難しいことです。そこには主体的に学びに向かう力や態度まで養われなければならない場があるのです。教科の学びが深まったと喜んでいても不十分です。主体的に学びに向かう態度を評価するということは指導しなければならず、指導するということはそれなりの仕組みが必要です。

学びに向かう態度とは何か、スキルベースでちゃんと示されていかなければ子供たちはできません。粘り強さや調整力が言われていますが、調整するってどうするのか、という話になります。45分の教師主導の授業だったら、いつ粘り強くなればいいのでしょうか。「今から粘り強く15問取り組みましょう」と言って粘り強くやっているのは、主体的に学びに向かう力や態度とは言えないでしょう。

主体的学びの本質と評価の課題

グランドデザインとして、日々の場は教科の知識、技能や思考、判断、表現だけが高まる場ではダメなのです。その場で確実に主体的に学びに向かう態度、学びに向かう力が育っている場でなければなりません。その仕組みを指導者は明確に説明できなければなりません。なんとなく育っているんじゃないかな、では不十分です。評価するなら指導しなければなりません。

指導というのは、主体的に学びに向かうとはこういうことだ、こういうことをやればいいんだよと子供たちに教えることです。心マトリクスを作って、毎回それを使って、使えたかどうかを確認して、友達の使い方を交流するようなことをするのです。これが指導であり、そうすれば評価できるでしょう。このようなことが千時間行われていないといけないのです。

現状の体制はそれができていますか?という話です。それもできていないのに、一授業の深い学びや本質的な問いについて議論するのは早すぎます。そういった基礎的なことがしっかりできていないと、授業を磨き上げる努力はできないと思っています。

今日の話は、昨日の最低限の明示についての続きでした。その最低限というのがそこまで厳しいものだということ、それが現在の体制での最低限だということです。

次のチャプターでは、その中でもできる子はできるし、伸びる子は伸びるし、Aを取る子もいるという話をします。そういった子たちが友達のサポートをするだけでは面白くありません。そこにはちゃんと上限が解放されているでしょうか?能力的な上限を解放していくことをどう仕組むかを次のチャプターでお伝えします。

上限解放と最低限保証のバランス

上限の解放について、さっきの最低限の明示とこの上限の解放がちゃんとつながってデザインされているというのは非常に重要だと思っています。上限は上限で開放するし、最低限は最低限で目指させようとする、この二つの努力を別個でやらなければいけなくなるとしんどいです。これはつなげないといけません。

私として何を言いたいかというと、その最低限はちゃんと自分で勉強できなければいけないんでしょう?という話でした。ちゃんと自分で教科書を学ぶということを自分のものにして、取り組んでいくということが最低限求められているということであり、その場で教えられるのはけテぶれQNKS、つまり考えるとはどういうことか、学ぶとはどういうことか、やってみるとはどういうことか、といったことがちゃんとスキルとして子供たちに手渡され、子供たちはそのスキルを使用し、学習に取り組み、そのスキルの向上を目指すというデザインを取っているわけです。

そうなると、できる子たちからしても、そういうスキルを明確に使いこなすという努力をし、友達とそういう努力の言葉を共有してやっているわけですから、普通に学習者として楽しくなってくるのです。そうなると、あとは最低限を押さえつつ、基本的に自由度を上げます。子供たちに「こうしなさい」「これしかダメです」というメッセージを減らしていけば減らすほど、子供たちは主体的、対話的に学び始めます。自然に、ほっといてもやるようになります。

だからここを教師がデザインしなければとか、子供達に刺さる本質的な問いを今日しか用意しなければと思うのは全然否定しませんが、そうしなくても子供たちはやる可能性があるのです。そしてそのやる可能性を消さない場作りが必要なわけです。それを消してしまったら、教師がやらなくてはいけなくなります。やるのですけど、そういうことができる可能性を残しておくということです。

絶対はないですよ。たまたまです。本当に子供たちの学習のフックとか、その辺で教師がパンと背中を押したりとか、もうその深い問いに出会う2、3歩前まで来ている子供たちを見た時に、「もうちょっとだよ」「ここを考えてごらん」「ここをこう見たら、ほら、どう?この問いにたどり着かない?」みたいなスッという言葉がけをその場でするというのは非常に大切です。そういうことができるようになるために、教師としても深い問いとか、この深い教材理解というのはもちろん必須なのですが、それを子供達に提供するというところまでしなくても、子供達自身で行けるところ、行ける範囲というのは結構広いというのが一つです。

言語化能力の重要性と教科書を超えた学び

もう一つは、これだけだとあまりにも子供たち任せすぎますという話です。だからできるという状態になった子に対しては次のレベル、説明できる、つまり言語化です。今、「言語化」という本が本当によく売れていますが、結局これです。自分の頭の中身をちゃんと豊かに言語にできますか?という話は非常に大切です。もう世の中的にも大人の自己啓発本というか、大人のそういう書籍としてもそれが売れているわけですから、それを小学校時点から練習するのは非常に価値があることです。

そして、その説明できるというのは、もう教科書のレベルを少し超えた学びになってくるわけです。本当に半分は教科書の学びに入っているのですが、教科書でもこういうのはなぜですか?と説明しましょうみたいな設問は確実にあり得るので、まあまあそれを全問題について自分で行いますか?みたいな話から始まり、一つずつできることを示していく、次はこうやればいいんだよということを示していかないと、やっぱり何をしていいかわからないということになるので、そういうできた後のデザインみたいなことは丁寧にやってあげなければいけないなということを思っています。

具体的な方法については、過去回でもたくさん喋っていますので、また聞き直していただければ幸いです。

ということで、2本取り続けて後半ちょっと疲れましたね。そんな感じでした。では、明日の放送でまたお会いしましょう。バイバイ。

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