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#14 音楽史⑨【19世紀初頭】 ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期

ポピュラーまで見据えて西洋音楽史を描きなおすシリーズの続きです。このシリーズはこちらにまとめてありますので是非フォローしてください。

前回は超・重要人物のベートーヴェンが登場したところまででした。

ベートーヴェンはハイドン・モーツァルトとともに「古典派」に数えられている一方で、活躍時期としてはその2人よりも少し後の時代の人物であり、19世紀以降の活躍は「ロマン派」への橋渡しだと捉えられています。そしてこの後登場する全員のドイツ人がベートーヴェンを受け継いでいきます。


ドイツ

ベートーヴェンは1827年に亡くなります。長らく音楽後進国だったドイツが、ヒーローの登場により風向きが変わりましたが、まず、ベートーヴェンが存命だった1827年までのあいだに何が起こったのでしょうか。大きなトピックとしては、2つです。

ウェーバー(1786~1826)が、ドイツ語台本でのオペラを創始しました。

それまでオペラといえばイタリアとフランスのものだったので、ドイツ人にとっては念願という感じでしょう。


シューベルト(1797~1828)がドイツ語での歌曲を発展させました。

18世紀、文化的遺産が乏しかったドイツ人が音楽民族としてアイデンティティを確立する過程でまず民謡にフォーカスが向けられます。モーツァルトやハイドンの作風も、実はドイツ民謡的なのです。さらに詩や文学の分野でゲーテやシラーなどの人物が作品を残していました。シューベルトはこれらの流れを受け、ドイツの国民的、民族的な詩にロマン派的な音楽を付けてドイツ歌曲を発展させた「歌曲の王」して評価されました。

実はウェーバーやシューベルトは、同時期のベートーヴェンの作風よりも音楽的にはどちらかというと古典派寄りであるのですが、「19世紀ドイツの文化」を切り開いた人物として評価され、初期ロマン派に位置付けられることになりました。

さて、後期ベートーヴェンですが、難聴が進む中、スランプも乗り越え、1824年にあの有名な「第九」として知られる、交響曲第九番を初演。大成功します。

1827年、56歳でベートーヴェンは死亡します。集会の自由が制限されるなか、2万人が集まる大葬儀となりました。棺を囲む集団のうちの一人にはシューベルトの姿もありました。

翌年1828年、31歳の若さでシューベルトも死亡。ベートヴェンのお墓の隣に埋葬されました。

ウェーバーも1826年に亡くなっており、彼らが作ったドイツ語圏でのロマン派の第一波が収束し、その次の世代へと受け継がれていきます。。


ところで、ベートーヴェン研究での重要な資料に、秘書として身の回りのお世話をしたというアントン・シンドラー(1795~1864)の記録があります。ベートーヴェンの死後、「ベートーヴェンの生涯」という伝記を書き、後のベートーヴェン解釈に多大な影響を及ぼしたことで知られています。

しかし、その多くの記録が捏造されたものであり、自分の描いたストーリーに合わせるために資料を廃棄したり改ざんしていたことが現在明らかになっています。

交響曲第5番の冒頭「ジャジャジャジャーン」が一体何をあらわすのか?という問いに対しベートーヴェンは「このように運命は扉を叩く」と言った、という有名な逸話も、実は彼の作り話だったのです。

「音楽史上最大の嘘つき男」シンドラーのおかげで、「過酷な運命に立ち向かう偉大な男、ベートーヴェン」というイメージが強調され、後世からの「神格化」がますます進んでいくのでした。



イタリア

さて、歴史あるイタリアオペラ界では、

ロッシーニ(1792~1868)
ドニゼッティ(1797~1848)
ベルリーニ(1801~1835)

らが活躍。非常に華やかな文化でした。ブルジョア聴衆たちにとっては、このような「軽い音楽」が人気であり、当時のポピュラー音楽といえるでしょう。

ドイツのベートーヴェン派から見れば、このような「軽音楽」という俗物に対して、「重厚で真面目で崇高な美を体現する我々のほうが普遍的なのだ」という意識を持つようになります。

現在にも存在する、「メジャー音楽批判」「こちらのほうがホンモノの音楽なのだ」というような発想はこのころ生まれたものだといえます。


フランスの19世紀

フランスでの19世紀は、革命以後ずっと、王政派と反政府派でさまざまな意思がせめぎ合い、社会が流動的なため、捉えるのが非常に複雑です。

前回にも書きましたが、フランス革命~ナポレオン戦争のあと、会議の末「ウィーン体制」=「革命前に戻そう主義」が決まり、フランスは1815~1830年のあいだブルボン王政復古となります。

パリの街には多くの貴族や新興ブルジョワジーらが住み、絶対王政の宮廷時代から続く華やかな文化を引き継いで、社交が行われていました。王侯貴族の権威が解体された後も、階級意識は浸透しており、裕福な貴族や大資本家たちから支援を受けて音楽家が活動していました。各邸宅にて頻繁に開催されたパーティーは、「サロンコンサート」と呼ばれ、19世紀前半のフランス音楽が発展する重要な舞台となります。

1830年に「七月革命」が起き、絶対王政は再び打倒されました。ここからルイ・フィリップが王となる「七月王政」時代に入ります。

1848年に再び大きな革命が起こるのですが・・・。

1827年前後のベートーヴェンらの死、1830年のフランス七月革命から、次の革命が起こる「1848年まで」という期間が、ロマン派音楽の第二段階となります。


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