見出し画像

人は共感する生き物? デイビッド・ヒュームの哲学をヒントに

 前回、私はスピノザの感情論を参照しながら、人は感情において他者を模倣するということを紹介させて頂いた。

 その際に、自己の感情というものは、自分に似たものがある感情に動かされていると、「想像すること」において、それだけで似た感情に動かされるという話をさせてもらった。

 この感情の模倣において、喜びの感情につながるものは、通常われわれは「共感」と呼んでいる。悲しみの感情が伴う場合「同情」「憐み」という呼び方をする。これらは、感情が喜びであるか、悲しみであるかで使い分けるのが通常であろう。

 これら感情は、「他者を想像」することにおいての心の働きなわけだが、スピノザ哲学の影響を受けながらも、感情についての考察を深め、自身の哲学原理として論じた哲学者の一人として、イギリス経験論を代表するデイヴィッド・ヒュームの名が挙げられる。

 ヒュームにおいては、とりわけ「共感(sympathy)」の概念が、道徳論、正義論において非常に重要な役割を担っているのだと、ヒューム研究者の中村隆文氏は述べている。

 ヒュームがスピノザの影響を受けていたかどうかについては、同じくヒューム研究者の矢嶋直規氏の論文『ヒュームのスピノザ主義』が参考になる。

 それによれば、ヒュームの代表作として知られる『人間本性論(A Treatise of Human Nature)』(以下『人性論』)と、「スピノザ哲学の間にはきわめて基本的な概念や論証に関して相当の類似や対応関係が存在する」(矢嶋)。

 実際に『人性論』を読んでみると、そのことがよくわかる。

 いずれにしても、彼らに共通する哲学の目的とは、倫理や道徳であり、「人々が共同して有徳で幸福になる道筋を示すことであった(矢島)」。
 
 ヒュームは「共感」のはたらきについて、以下のように述べる。

等しい強さに張られた弦で一本の弦の振動が残りの弦に伝わるように、すべての感情はたやすく一人の人から他の人へと移り、すべての人間に対応する動きを生む。私がある人の声や身ぶりに情念の結果を読み取ると、私の心はすぐにこうした結果からその原因へと移って、情念についての生き生きとした観念を形作り、この観念はただちに情念そのものに変わる・・・私がある感動の原因を知覚すると、私の心は結果へと運び移され、似通った感動で揺り動かされる。もちろん、他人のいかなる情念もじかに私の心に現れるのではない。ただその原因もしくは結果に気づくだけである。われわれは、これら原因もしくは結果から情念を推し量り、その結果として、これらが共感を呼び起こすのである
※強調引用者

『人性論』ヒューㇺ(中公クラシックス)より

 スピノザの「模倣」に近い意味合いで、感情の「伝播」をヒュームはここで説明している。「情動感染」「感情感染」という呼び方もされているようだ。「情念を推し量り」という点も、他者を想像することにおいてそうなるのだということである。

 この説明については、誰もが経験として持つもののように思える。われわは、家庭、学校、バイト先、職場、友人・知人との集まりといったあらゆるコミュニティの場において、他者の感情を想像する、推し量る、ということをしている。

 自分なら嬉しい、悲しい、いらつく、むかつく、であろうということを置き換えて、相手の気持を察する。その推察が、ぴったりはまるときは、通じ合える、わかり合える、空気を読んでいる、という「共感」を呼び起こし、逆に読み違えると、余計なお世話だったり、ぜんぜん違うということで相手の怒りを誘発してしまったり傷つけてしまったりなどもして、場の空気が最悪となる。


 ところで、話題は逸れるが、この「共感」という言葉、今ではどこでもよく耳にする、ありふれた言葉の一つであるが、『共感の思想史』の著者、仲嶋陽一氏によれば、「共感」という日本語自体は、比較的新しい言葉なのだという。

 著者は、「共感」を「他人の感情に対して同じ感情を持つこと」と定義したうえで、この「共感」という単語がいつから登場してきたのかを調べるところから始めている。

 それによれば、「共感」という見出しが初めて登場するのは、『大辞典』(平凡社)、1935年の時であるのだが、その時は「追感」と同じ意味だという説明がなされていたそうだ。

「追感」とは、「前にありしことを後より思い出すこと」とあり、われわれが使っている共感とは違う意味になってしまっている。なので、これを初出としてみなさいとなると、次に登場するのは、1949年、『言林』(新村出編、全国書房)とのことで、つまり「共感」は、戦後に日本で作られた新語とのことである。

 それ以前にこの共感と同義の意味を担っていた言葉は「同情」であった。この同情の意味も時代時代において変容するのだが、全部追っていると文字数がかさんでしまうので、結論からいくと、同情はもともと他者の「喜びや悲しみ」といった境遇や感情の一致という多義的な意味を持っていた。

 しかし、次第に、苦しみや悲しみへの共感という狭義の意味合いに変容し、それを近代人が嫌ったため、肯定的な意味合いを持つ言葉として「共感」が生まれたのだという。

 本書においては、この「共感」を意味する概念が、人類史の古今東西でどのように考えられてきたのか、さまざまな切り口で紹介してくれる。仏教における「慈悲」、儒教思想における「仁」、原始キリスト教における「慈愛」がそれに近く、西洋哲学でいけばアリストテレス、デカルト、スピノザ、ヒューム、スミス、マルクス、ニーチェ・・・といったように、彼らが考えていた「共感」を紐解いていく。

 「共感」という概念は、それがどんな語によってあらわされるにせよ、古来よりあったし、近代哲学においても取り上げられてきた。しかし、その中でも著者は、「共感」を自らの哲学の原理としてはじめて論じたのは、先にも挙げたヒュームではないかと位置づけている。

 そのヒュームに戻ろう。ヒューム自身が「理性は感情の奴隷であり、またそうあるべきである」とも言っているように、ヒュームはスピノザ同様に、人間の行動や判断は、理性よりも感情に基づいているという考えをもっている。

 ヒューム自身の「共感」は、心理現象としてのそれである。先に記載した内容の繰り返しになるが、「他人のどんな情念も直接には[私達の]心に現出しない」とヒュームは言う。

 われれは、それらの「原因または結果を感知する」のみである。われわれは「情念を推論する」形で、他者の感情を認知する。そしてその認知により、共感を起こすのである。

 感情が人間の本質と捉えたところでは、ヒュームもスピノザも共通している。しかしヒュームの独創性は、この感情を、社会的なつながりや、道徳の基盤に置いたという点にあるのではないか。共感を通じて他者の幸福や苦痛を感じ取ることが、われわれが道徳的判断を下す際の基盤になると考えたのであった。

 また、ヒュームは、人間は基本的には利己的な生物であるとうことを認めつつも、共感を通じて他者の視点を理解し、利他的な行動をとることが可能だと考えていた。その点で、共感は、利己心と利他心の橋渡しをする役割を果たすと考えていたようだ。

 上記のように、ヒュームの「共感」はポジティブな印象である。また、人間の感情に対する位置づけも高い。一方で、ヒュームは、他者はわれわれに似ているがゆえに、また似ているのに応じて、またわれわれに近いほど、われわれの共感を引き起こすのだと考えている。

 しかし、これに従うのであれば、果たして共感という感情は、普遍性を持ちうるのだろうか? という疑問は残る。感情は移ろいやすい、変動的なものであるからだ。感情を手なづけるなどといったことが、果たして人間にできるのであろうか。

 しかしヒュームは、それがたとえ「私たちの共感のこの変動にもかかわらず、中国のものでも英国のものでも同一の道徳的性質には同一の是認を与える」としている。(仲嶋)

 これは、儒家は認めない考え方だと、仲嶋氏は指摘する。

儒家は道徳を(可能性としては普遍的であっても)現実的には相手によって区別を含むものとみなす。しかしヒュームは道徳原理に普遍性を求めるので、共感原理そのものが道徳原理にはなれない。そこでヒュームは言う。「これらのたえざる矛盾を防ぎ、また事柄のより安定した判断に達するために、私達はある固定した一般的な観点に身をおく。そして私達の思考において、私達の現在の状況が何であっても、常にそこに身をおく」。たとえばいまは疎遠な人も後には知己になるかもしれない、等と考えて、「この反省によって瞬間的な外観を訂正する」というのである。この説はにわかに納得しがたい・・・・このように、反省による共感の訂正あるいは拡張というヒュームの理論は、必ずしも納得できるものではない。しかしここには同情倫理一般の難点が現れている。そして、共感は道徳の源泉であるとしても、個々の道徳的判断においては直接の共感自体が必ずしも原理とならない。
※強調引用者

『共感の思想史』仲嶋陽一(創風社)より


 このあたりのヒューム思想の是非を論じる力は私にはないのだが、著者が儒家を引き合いに出しての「道徳を(可能性としては普遍的であっても)現実的には相手によって区別を含むものとみなす」という説明は、経験的にはリアリティがある。

 われわれは、自分と近い、類似した他者には共感を起こすが、遠い他者に対してはどうであろう。遠い他者の出来事には、なかなかその感情を想像し、移入することができない。それゆえに、遠い国の戦争や災害などといった出来事も、他人事のように捉えてしまうことが、残念ながら、ある。

 現代のSNS社会は、赤の他人同士のつながりであるゆえ、そこに現れる他者は、自分より遠い他者のように思えてしまうが、同じ言語を共有する同じ国の人間同士ということで、近い他者として容易に表象してしまうであろう。

 それゆえに、SNSは自国のネットワークにおいては、自分に近いと表象する他者を想像して、共感や同情、反発や蔑み、肯定、否定といった感情の模倣、伝播をたやすく起こしてしまうのではないかと思える。

 SNSはまさに、つながっていないようでつながっている他者との感情のやり取りが「可視化」された状態で、まさにダダ漏れのようにして日々流れていくわけだが、われわれはその空中戦を俯瞰し、楽しむことも含め、そのプラットフォームに依存している。まさに、「感情模倣と伝播のデジタル化」とも呼べるような事態である。

 一方で、私は、つながっているようでつながっていない他者のプラットフォームがあることを、われわれの日常において痛感している。

 電車、車といった交通社会がそれでなかろうか。とりわけ、満員電車を知るものであれば、そのことを容易に想像して頂けるはずだ。そこにあるのは基本的には、自分の領域の確保のための利己心だけがあり、満員電車はフィジカル的にもメンタル的にも、否応なしに自己の空間、身体領域が侵される。その領域確保のせめぎ合いがまず行われるので、そこで伝播する感情は、苛立ちや不快といった負の感情だ。

 人は、自己の思い通りにいかないと、感情をあらわにしてしまう生き物でもある。車においても同じだ。渋滞の時に、ドライバーの人格が豹変してしまうというのはよく聞く話だ。その行き過ぎた行為が煽り運転という形として表出してしまい、社会問題にもなっている。

 同じ人間、同じ日本人であっても、この電車や車社会においては、そこにいる他者が近接した人間、類似した人間なのだという想像が働かないのはなぜだろうか。

 そこに表象されるのは遠い他者、もっといってしまえば、通勤ラッシュ時においては、他者が感情のないモノに見えてしまう時さえある、という事実だ。

 しかしそれは何も、「私」だけが他者をそのように見做してしまうだけではあるまい。他者からすれば、「私」もまた同じように、感情なきモノとして映し出されているはずなのだ。

 共感、感情についてこれまで書いていたが、これらは一筋縄では説明できない難しさがある。言われてみれば、そんなの当たり前じゃないか、とさえ思えてしまうこの感情のテーマ。

 仏教や儒教、キリスト教、ギリシャ哲学と、古今東西において、ずっと偉人らによって考え抜かれてきたものなのだが、未だに答えのない、厄介な問題でもある。人は共感する生き物である、と断言できないもどかしさは、やはり残ってしまう。



<参考文献>
『人性論』ヒューム、土岐 邦夫、小西 嘉四郎(訳)中公クラシックス
論文:『ヒュームの正義論において中心的役割を果す「共感」の概念』中村 隆文
論文『ヒュームのスピノザ主義』矢嶋直規


<関連記事>


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集