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ゲーテとスピノザ 神即ち自然と直観知
先日、けいはんな哲学カフェ「ゲーテの会」が主催する講演会にオンラインで参加してきた。講演タイトルは『「直観」から勇気をもらう ー 自然研究者ゲーテがスピノザに学んだこと』。講演者は、スピノザ研究者であり『スピノザ 人間の自由の哲学』(講談社現代新書)の著者、『神学・政治論』(光文社古典新訳文庫)の翻訳者でもある吉田量彦先生である。受講した記憶が薄れないうちに、講演の内容もふまえつつ、ゲーテとスピノザの関係についてを紹介してみたい。
ゲーテ、スピノザと出会う
ゲーテがスピノザに心酔していたというのは、スピノザとドイツ観念論の研究の中でたびたび出てくる。ゲーテがゴリゴリのスピノザ主義者であることは、スピノザに関する研究著作を介して知った。ゲーテは『詩と真実』の中で、スピノザについてこう触れている。
これほど決定的に私に働きかけ、私の考え方の全体にあれほど大きな影響をあたえたこの人物は、スピノザであった。つまり私は自分の特異な本性を陶冶する手段をあらゆるところに探し求めて得られなかったその果てに、とうとうこの人の『エチカ』にめぐり合ったのである。(『ゲーテ全集 10』)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)[1749~1832]は、ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』などの重要な作品を残した。他にも『親和力』という作品もある。
ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいらしく、古くは「ギョオテ」と日本語表記されていたようである。森鴎外は『ギョオテ伝』での「哲学」という随筆の中で、「ギョオテはスピノザ(Spinoza)派の一人である」と述べており、森鴎外によ るとゲーテはスピノザ派の一人であり、若いころからスピノザの影響を受け、生涯スピノザ派を離れなかったのである(ツグラッゲン・エヴェリン)。これについては、吉田量彦先生も講演のイントロダクションとして触れていた。
文学者であるゲーテは、同時にヴァイマル公国の宮廷顧問公務でもあり、その傍ら自然科学研究も行っていた。膨大な自然科学コレクションを収集・分析し、自然科学分野に関する論文も残している。自然科学におけるその業績は、「植物変態論」、「色彩論」などの著作においてみられる。彼の文学はその自然観から生み出されるものなのであった。ゲーテが構想していた自然学の全容については、高橋義人氏による『形態と象徴―ゲーテと「緑の自然科学」』が詳しい。
同書によれば、ゲーテはスピノザに出会う頃よりも前に、「神即ち自然」と同一の思想を持っていたのだという。先に引用した森鴎外も、ゲーテはスピノザ派であったが「併しスピノザの書を読まぬ前から同一思想を持っていた」とも述べている。
神と自然を分けて論じるなどということは、なかなかできることではないし、また危険なことでもある。それは身体と精神を別々に考察するようなものだ。精神は身体を通してのみ認識されるし、神も自然の観察を通してのみ認識することができる。したがって真に哲学的な思索にもとづいて神を世界と結びつけた人々を不条理だと言って責めるのは、それこを不条理というものだ。この世に存在する万物は、神の本質に属している。というのも神こそは唯一の実在であり、万物を包摂しているからである。(『エフェメリデス』)
これはゲーテの神内在説ともいうべき自然観である。この自然観が、神と自然、身体と精神を分けて論じるキリスト教的な世界観と相反するものであることは言うまでもない。ゲーテ的な宇宙観においては、「自然はすなわち神であり、すなわち世界である。しかも人間は、このような自然(マクロコスモス=無限宇宙)の縮図というべきミクロコスモスにほかならない・・・まさしく彼にとって自然を知ることはそのまま自分自身を知ることであり、自然を見ることはそのまま自然のうちなる神、自分のうちなる神を見ることにほからなかった(高橋義人)」。
この一元論は、ゲーテ固有のものではない。若き頃のゲーテは、プロティノスやパラケルススの思想から影響を受けていたようだ。スピノザと出会うのはその先である。ちなみにパラケルススとは、私もはじめて知ったのだが、15‐16世紀の自然哲学者だったようで、化学を扱い、アンチモン、鉛、銅、ヒ素などの金属の化合物を初めて医薬品に採用した業績から「医化学の祖」と呼ばれているらしい。化学はこの時代においては魔術の位置づけであったから彼の哲学は魔術的自然哲学とも呼ばれる。
このようにゲーテはスピノザの「神即ち自然」に共鳴できる下地ともいうべき世界観をすでに持っていたのである。しかしこの時代は啓蒙主義とキリスト教的世界観がいぜん支配している時代である。このゲーテの思想はあまりにも危険な思想であり、彼自身は自分が異端思想の持主であることを早くから自覚していたようである。ゲーテは他にもキリスト教の世界観よりも、イスラムの『コーラン』に魅かれるなど、アンチキリストの色を濃くしていた。
ゲーテ思想を培った自然体験
このようなゲーテの自然観はいかにして培われたのか。それは上記のような哲学思想、他宗教の思想に触れていたこともそうだろうが、若きゲーテはかなりの旅好きだったようだ。(同時に恋多き人、女性好きでもあったようだ(笑))。各地を旅し、野原を馬でかけまわったり、歩いたり、そして登山をすることで美しい自然の風景に触れ、自然を愛した。
自然を知るには、実際に野原や山のなかを歩きまわらなければならない・・・実際に歩きまわり、汗をかかないと、自然は見えてこない。自然を見るには身体が必要である。身体が自然のなかに包まれ、身体と自然がど こかでつながっていると感じられなければならない。そう感じたとき、自分は自然のなかのちっぽけな存在であること、だが、そのちっぽけな存在が大いなる自然のなかでいま輝いていることが分かる。それが、自然体験である・・・自分のなかに神的なものがある。そして周囲の自然のなかにも神的なも のが満ちている。神的なものによって自分は自然とつながっている。自分と自然はひとつだ。 そう感じる。これが、若きゲーテの汎神論体験である。
ゲーテはこのような自然観から、「森羅万象を一つに結びつけている自然のうちなる大いなる生命をひとたび体得し、世界と自己との幸福な合体感を体験」する。途中、この幸福感の喪失などに苦しんだりもしたようだが、それでも自然の「大いなる生命」への憧れは一層に募った(高橋義人)。『ファウスト』初稿の中で、主人公のファウストは「万有のなかにすべてが調和のとれた響きを奏でている」自然に向かって、「天と地を支えているあらゆる生命の泉よ。しぼんだおれの胸はお前の泉を汲んでみたい」と呼びかけている。
若きゲーテは、プロティノスのような新プラトン主義に傾倒していた。この新プラトン主義の流出説においては、「生命の泉」は神とほぼ同一視され、そこから万物が「流出」してくるのだと考えられていた。この時のゲーテの自然観はまさに新プラトン主義的なものであったろう。そしてその思想はまさしく「汎神論」なのである。先ほどのゲーテが考えていた世界観が、スピノザの「神即ち自然」と似ているのはそのためである。だが、神秘主義的な色合いも強い(私自身は、スピノザは世間でよく言われてるような汎神論ともじつは違うというか、単純にその呼称だけでは括れないのではないかという考えをとっている。スピノザはもちろん自身の哲学を汎神論と呼んでいない)。
ゲーテはこのような思想形成の中で、ついにスピノザの『エチカ』との出会いを果たすわけだが、スピノザ『エチカ』が与えた衝撃は、ゲーテに限ったものではない。ゲーテがいたこの時代のドイツにおいて、スピノザ思想の解釈をめぐって争われることになる「汎神論論争」(別名スピノザ論争)が勃発する。この汎神論論争がのちのドイツ観念論の土壌を作ったのである。
ゲーテと汎神論論争
「汎神論論争」はそれだけで膨大な研究があるので、ここでは簡単に概要に触れておく。汎神論論争とは、18世紀後半にドイツで起きたスピノザの哲学をどう受け入れるか、スピノザの神をどう捉えるかという一連の論争のことである。先にも述べたように18世紀のヨーロッパはキリスト教的な世界観、思想が支配的な時代である。
17世紀オランダの哲学者スピノザのテキストはドイツにも入ってきたのだが、「神即ち自然」のテーゼはキリスト教から無神論のレッテルをはられ、長い間タブー視されてきたのだ。汎神論論争にいたるまで、ドイツでのスピノザ研究は進んでいなかったばかりか、存在すら忘れさられており、スピノザは「死んだ犬」とまで形容される扱いであった。スピノザを研究すること、その名を口にすることは、その人自身も危険人物扱いされることから、かなり勇気のいることなのであった。
そんな中、ドイツの劇作家レッシングが自身の作品の中で、個々の宗教の教義を超越し、普遍の地平に到達すべきであるという考えを示しており、スピノザに傾倒していく。友人の哲学者ヤコービとの間でスピノザをめぐっての激しい書簡でのやり取りがなされるのである。
彼らと親交があったゲーテもその只中にいて、スピノザの『エチカ』を受容し、それに強く共鳴したあとに書いた詩が、まさにスピノザ的汎神論を表現したものであったようだ。その詩をゲーテに見せてもらい写し取っていたヤコービが、その無神論的な内容からして、自分が敬愛するレッシングが怒るに違いないと期待してレッシングに読ませるのだが、ヤコービは怒るどころか、ゲーテの詩に深く共鳴する。そのことがきっかけで、レッシングとヤコービとの間で論争が始まったとされる(『形態と象徴―ゲーテと「緑の自然科学」』)。ヤコービは人格神こそを信じていたからだ。
晩年には「自分はスピノザ主義者かもしれない」とレッシングが述べたことで、この発言をめぐって、ヤコービとメンデルスゾーンの間で、レッシングはスピノザ主義だったのか?、いや違う、という問答がなされ、「スピノザ主義とは何か?」という問題へと発展していった。カントやハーマン、ヘルダー、そしてゲーテもこの論争に加わることで論争は激しさを増していくのである。スピノザ論争は、当時のドイツにおける一流の知識人たちの間でのビッグトレンドであったのだ。この汎神論論争の最先端の研究でいえば『スピノザの学説に関する書簡(知泉書簡)』、『スピノザと近代ドイツ( 岩波書店)』が詳しい。
ところで、ゲーテがスピノザ思想をどこまで正しく理解していたのかは、私自身よくわかっていないところがあり、「ゲーテの会」講演での吉田量彦先生も、詳細については触れていなかった。ただ、ゲーテがスピノザに深く共鳴し自身の創作や、哲学的、自然科学的探究の中心に据えていたのは間違いない。ゲーテとスピノザ、その関係性の研究はさらに詳細が出てくることを期待したいが、すでに画期的な研究著作のいくつかもでているので紹介しておこう。
<ゲーテとスピノザの関連著作>
・形態と象徴―ゲーテと「緑の自然科学」(高橋義人)
・ゲーテ『親和力』における「倫理的なもの」―F・H・ヤコービの「スピノザ主義」批判との関連において(中井真之)
・ゲーテとスピノザ主義 (大阪経済大学研究叢書) 大阪経済大学研究叢書(大槻裕子)
・モルフォロギア ゲーテと自然科学 第35号 特集:ゲーテとスピノザ主義
ゲーテが勇気をもらった「直観知」とは何か
最後に、ゲーテがスピノザに共鳴していた思想の主要部分についてを、吉田量彦先生の講演内容をたどりながら触れておこう。それがスピノザにおける三つの認識の一つ「直観知(scientia intuitiva)」である。
スピノザは、人間の認識様式を、次の三つの認識に分けて論じている。
第1種の認識=表象知 臆見、表象、想像などによる認識。受動的な認識
第2種の認識=理性知 共通概念、理性による認識。能動的な認識
第3種の認識=直観知 本質の直観的な認識。能動的な認識
このうち直観知こそが、人間がこの世界を認識するうえで、神の十全な観念(=真理)へと至る認識なのであるが、その認識方法とは自然の必然的な秩序を理解し、事物の因果関係を捉える科学のような論理的推論にもとづいた学問的方法によって得る認識=理性知ではなく、まさしく「直観」で、神の本質、事物の本質を「直ち」に捉えるというものである。
われわれは、第三種の認識によって認識するすべてのことを楽しむ。しかもこの楽しみは、原因としての神の観念を伴っている。
系 第三種の認識から、必然的に神への知的愛が生じてくる。なぜならこの種の認識から原因としての神の観念をともなう喜び、すなわち神への愛が生じてくる。しかもこの愛は、神を現存在的なものとして想像するかぎりの神への愛ではなくて、神を永遠であると認識するかぎりの神への愛である。これがすなわち、神への知的愛と呼ぶものである(『エチカ』第五部定理三十二)
この直観知というものが、具体的にどのような認識であるのか、いまいちピンとこない方も多いと思う。私も正直、直観知が具体的にはどんな認識?と問われると心もとない。だが、今回吉田量彦先生の明晰な説明によって、それがある程度明確になった気がした。スピノザはこの直観知の例について触れている。そこの引用を、吉田量彦先生の論文に頼って紹介しておこう。
いわゆる認識の3分類を提示した直後、スピノザはこの3つを一度に、1つの例を用いて説明しようとする。任意の4つの数abcdの間にa:b=c:dという関係が成り立っていて、しかもabcそれぞれの値が既に示されている場合に、残るdの値を求めよ、という計算問題の例である。正解はd=bc/aとして得られる。そしてその正解を正解と認める根拠をめぐって、まずは表象知と理性知が分類される。表象知の根拠は計算法を教えてくれた人に対する信頼だったり、過去に簡単な数の同種の計算問題がこうやって解けた、という成功体験だったりする。これに対して理性は、この計算方法の裏づけを幾何学的な原理に求めることになる。
表象知、理性知まではなんとなく理解できそうであろう。それらは、われわれが日常において経験しているものである。表象知は、人間の感覚的、経験的、表象的、想像的な認識であり、これらは混乱した観念も招くことから非十全な認識とされる。臆見、迷信などが混乱した観念の一例である。理性知は神=自然というもっとも共通なもの、普遍的なものとして考えられる「共通概念」による認識であるのだが、数学の原理、科学的な理論に基づく認識がその例である。では、直観知はどうだろうか。
さて、直観知の場合、こうした計算のような手続きは必要ない、とスピノザは言う。直観知はたとえば、abc各項目がごくごく単純な数で占められている場合に見られる。1:2=3:xのときにxを求めよ、というような場合がそれである。言うまでもなくx=6である。大抵の人には、わざわざd=bc/aという式に当てはめて計算しなくても「ひとつの直観によってuno intuitu」この場合xが6でしかありえないことが分かるだろう。これが直観知だとスピノザは言うのである。
この直観知の例に、読者は困惑せずにはいられない。それは、あまりにも単純なことなので、え? 直観知ってしょぼくない? 小学生の九九のレベルでわかる話じゃないの? そんなことをスピノザはわざわざ言いたいの? それが理性知と区別されるのはなぜなの? という疑問が出てきてしまうからだ。だがスピノザはこの直観知を「精神の最高の努力であり最高の徳」とまでうたうのである。
これについて、吉田量彦先生はこう補足してくれた。例えば「1:2=3:x」ではなく、「31:17=365:x」の場合はどうか。これは慣れた人はすぐにわかるのかもしれないが、「1:2=3:x」のようにはすぐにはxの値が出てこない。たいていの人は計算をして求めるだろう。だが、スピノザは直観知を「直ちにuno intuitu」わかるはずだ、ということが言いたいらしい。で、その直ちにわかる、というのはxの回答のことをさすのではない。
仮にどんなに複雑な計算を要しそうな問いであったとしても、そこに何らかの関係性、原理なり法則なりが内在しているはずだ、ということが直観できるかどうか、ということのようだ。内在的に答えが決まっているということがわかってさえいれば、それは今すぐ、私が答えられる問いでないとしても、答えはそこにあるということなのだ。ゲーテはスピノザのこの直観知によって、「私の全生涯を事物の観察に捧げる勇気」をもらったと語っている。
これが何を意味するか。自然の観察とは、根気がいることだ。自然はすぐには人間にわかるようにできていない。自分がやっている自然の観察=学問が、どこに向かおうとしているのか、答えがあるのか、行先は常に不透明である。だが、それでもスピノザの直観知の認識に頼り、この世界、自然には、必ず神の法則が貫いているということさえ認識できていれば、いつかそれは、われわれ人間が答えにたどりつくことができるということである。なぜなら答えは既に自然の中に「ある」のだから。このいつか解明できるという保証は、直観的に、神という普遍的な法則において保証されているのである。
さらに吉田量彦先生の論文からも補足すると、理性知とは、あくまで「共通概念」、一般法則にもとづく知の解明である。科学が扱えるのはこの一般性であり、「この私」や「この猫」ではない。スピノザが理性知において感情のメカニズムを説明するのも、科学が物理現象を説明するのも、誰にでもあてはまるであろうという仮定のもと、その一般性において語られるのである。しかしこの一般にあてはまらない「この私」「この猫」があるかもしれない。理性では汲み取れない「例外」があるかもしれない。
科学的な知、すなわち理性知はその例外を扱わないことにおいて成立するが、その例外ケースとて、神という「普遍性」においては説明できる何かのはずである。それは神の観念としての直観知の領域である。理性知も十全な観念ではあるが、理性知が人間の認識である以上、足踏みするときがあるのだ。「直観知の存在意義はまさしく、理性による探究が足踏みを重ねているような時にこそ際立ってくる(吉田量彦)」のである。
それは統制的理念のように
ゲーテは、このスピノザの直観知にこそ勇気をもらい、そして自然の探究を続けたのだ。その終わりなき追及は、「いつか解明される知」という統制的理念によって突き動かされている。統制的理念とは、実現できるかはわからないが、普遍的な理念を掲げることで、そのような方向に向けて永久的に努力し続ける営為こそが重要であるというような考え方である。
現在の人類の科学的な探究もまさに、このような理念において突き進んでいると考えられる。ゲーテと同じく、現代科学者は、理性だけに頼らず、この神への直観のもとに、いつか解明できるという確信のもと探究をしているように私にはみえる。量子力学はまさに、これまでの理性知では明確にできない「例外」ではないだろうか。だが科学者の探究心は尽きない。それが神の領域だからと恐れおののくのではなく、すべては神=自然の領域なのだから、前に進むしかないのだというように。
直観知とは普通の意味の認識(対象をそうあらしめている具体的な仕組みの解明)にかかわるものではなく、この「多くのもの」に対する認識主体自身の基本的な態度にかかわるものであるように思われる。それは一言で言ってしまえば、万物は神のうちにあって神を介してのみ考えられる、ということを常に意識しながら万物(自分とは異なる外部の事物、自己の身体、そして精神としての自己自身)に臨む態度ということになるだろう。
吉田量彦先生の指摘にあるように、直観知とは認識の「方法」というよりは、認識主体の「態度」それ自体ということである。スピノザの思想がまさにそのようなものである。神への知的愛、その喜びは人間において到達できるものであるかはわからない。だが、神が直観できてさえいれば、人はその喜びに向けて、現実において永久にそれを求めて営為することができるということである。そのような認識主体である私=あなたの能動的な態度こそが重要なのだ。
ゲーテはスピノザのそのようなプロセスそのものを重視する存在の倫理学にこそ共鳴したのであろう。人間がいつか神の知への喜びに達するという理念。これは「賭け」とか、「祈り」ともまた違う。すべての自然は人間のためにつくられているという「傲慢」とも違う。神=自然の本質が、私たちの知あるいは生への認識を駆り立てる「現実の力」そのものである、と解するべきなのだ。