なんのために本を読むのか?「知は力である」ということ
10月26日・27日は、神保町ブックフェスティバルがある。それはそれでまた楽しみなのではあるが、ところで私はなぜ本を読むのか? 読書が好きなのか? そのことについて少し考えてみたい。
私が本を読むのは、おそらくほとんどの読書家がそうであるように、この「世界」や自分以外の「他者」との接触、「知」への欲望、探究心といったものである。あるいは、「言葉」自体への希求、「表現」への渇望、「思考」するための手段、といった要素もあげられると思う。
これらを端的に楽しめるかどうかが、本好きとそうでない方を隔てるものなのではないだろうか。日本人の読書離れは年々加速しているということはよく耳にするが、確かにその通りなのだろう。電車に乗っていても、本を読んでいるという人は本当に見かけなくなった。日々の観測だけでも、本を読んでいる人は、一車両あたり一人二人いるかどうかではないだろうか。
本が、情報を取得するためのメディアとしてはすでに後退しているということなのだろうが、確かにさまざまな情報を、網羅的に効率よく取得することを目的にするならば、本は最適ではない。むしろ同じ紙媒体においては、新聞や雑誌がその役割を担ってきたと思われるが、それらは今や、ネットメディアに代替されてしまった。
さまざまな情報をタイムリーに、より気軽に取得するのであれば、ネットの方がよい。それは私だってそうである。ということは、私が本に求めているのは、たんなる情報ではないということがいえるわけで、私はそのことを自覚的に、明確に分けている。
冒頭にも示したように、私が本に求めるものとは「知」である。それ以外のものは「情報」であり、私にとっての「知」の取得のための最適手段が本を読むことにあたり、それ以外のメディアで取得するもののほとんどは「情報」である。
では、この「知」と「情報」の差異は何だろうかといったときに、これはネットでもすぐに出てくるように、以下のような定義になるのであろう。
ここで私独自の勝手な定義をつけ加えるならば、上記のような知識と知恵といったものは、私においては「知性」と呼んでいるものだ。この「知性」というものは、「知」そのものが、同時に「力」でもあるということである。このことは、イギリスの哲学者、フランシス・ベーコンが、「知は力なり」と表現しているが、ここでは私なりの考察を進めたい。
上記のように、私はこの「知」=「力」を、「知性」と捉えている。そして、私が本を読み、読書をする意義とは、この「知性」の獲得に他ならない。そう、本を読むことは、少なくとも私にとっては、暇つぶしやエンタメ性を求めたものにはあらず、あくまで自分自身のライフワークにおいて、行動や思考をするための活力、エンジンとなるようなものである。
そしてそれは、noteで記事を書くとか、仕事において事業計画や企画書を作るとか、具体的なアウトプットの際に、これらの「知」が表現=思考を形作るエッセンスにもなりえるのである。
そんな堅苦しく考えなくても、本というもの、読書というものはそれだけで楽しいものだよ、気分転換できるものだよ、という方もいるかもしれない。そういった読書のあり方、本の向き合い方もあるだろう。ただ、私にとっての読書とは、自身の行動の活力的なものとして、もう三十年近く、この身体に染みついてしまっているので、変えようがないのである。気晴らし的なものは、どちらかというとネットのコンテンツで満たしている。
私の人生における最大の欲望とは、後述するが、私自身が生きうる限りに「世界を直観すること」にある。その手段はなにも、読書である必要はないわけだが、今のところこの読書こそが、その最適な手段であるため、今も続けている次第である。
そしてその読書体験は、つねに世界という他者の知的興奮において支えられているため、私にとっての喜び、愉楽そのものでもあったりする。だから、本を読むこと自体を義務的な行為として行っているわけではなく、たんに好きだからとしか言いようがないものでもある。
私が育った家庭は幸いなことに、本がたくさん与えられた環境にあった。父が文学青年で、俳句をやっているということもあり、父と母の教育方針がそうだったのか、幼い頃から本を読んで育ってきた。
私と弟の部屋には、物心のつく前から大きな書棚がいくつかあって、そこには、『ノンタン』や『ミッフィー』の絵本、『はらぺこあおむし』や『ねないこだれだ』、『からすのパンやさん』『スーホの白い馬』など、今でも定番である絵本がひととおり並び、『エルマーの冒険』シリーズ、『スッコケ三人組』シリーズ、日本や世界の偉人の伝記シリーズ、『ファーブル昆虫記』、『シートン動物記』『少年探偵江戸川乱歩全集』、モーリス・ルブランの『怪盗ルパン』シリーズといった児童向けの本が、それこそ図書館のごとくに配列されていたので、幼稚園、小学校と、学年があがるごとに、その時の関心と能力に見合った本を手にとることができた。
さらにその書棚には、岩波文庫の青帯(哲学)、赤帯(世界文学)、緑帯(日本文学)、白帯(社会学)がひととおり揃っていて、高校・大学に進学する頃には、家にあった岩波文庫を通して、日本文学→世界文学→哲学、といった順番で読書の関心を移していくことができたのである。
もう四十年前くらいのことであるが、その岩波文庫だけは、今も自分の蔵書に保管している。そこには森鴎外や夏目漱石、谷崎潤一郎や志賀直哉もあり、マルクスの『資本論』も全巻あったし、デカルトやカント、ヘーゲルやニーチェの主要著作もあったので、これらは家にあった岩波文庫で読むことができた。なぜかスピノザはなかったので(笑)、スピノザの岩波文庫版は自分で追加することとなる。
今思うと、父が本好きな人間であったから、自分でひと通り手に入れた本のうち、読まなくなったものを、子供(私)の書棚に並べてくれていたのだと思うが、これらの要因もあり、私にとって本が、自分の人生の中で切り離せないものになったのは確かである。
そのような本に囲まれた環境にあった私は、大学生の頃には、必然ともいうべきか、本格的に文学、小説に傾倒するようになる。本を読むことは、私にとって「知」を得ることであり、「世界」や自分以外の「他者」との接触であることなのだと述べたが、まさに絵本や児童文学、小説といった「文学」は、私にとってはそのような他者体験であった。
そして何より、それらの作品からは、表現による「力」を受けるのである。本という他者から触発されたその力は、想像力や、自分も同じように言葉で表現してみたいという思いへと変換され、小説を書きたい、言葉で表現したいという創造に向かうであろう。
小説を書くことや、映画を撮る、絵を描く、ものを作るというクリエイティブなものには、自分の世界を創造したい、構築したいという動機がまず第一にあるように思える。それは、この世界という他者を知り、自分なりの世界との向き合い方、接触の仕方、世界はなぜこうなの?という問いと、その問いへの自分なりの答えとして、そのような創造的なものに向かわせるからではないだろうか。
これらの自己表現にかかわることでもあるが、私は何よりも、「世界を直観したい」のだ。若かりし頃でいくと、「生きている実感がほしいのだ」という感覚かもしれない。そのような思いは、歳を重ねた今でもさほど変わりはない。私たちは何のために生きているのか? という問いはナイーブすぎる。ただ生きる他ないのだが、この、ただ自分を生かそうとしている最大の原因=世界についての問い、探究こそが、私にとっては重要なのだ。
ここで私がいう「世界」とは、スピノザがいう「神=自然」、あるいは「現実」のことを前提としている。この「世界を直観したい」という希求は、小説を書きたいと覚醒した時から、もうずっとそうなのである。
われわれは、生きるのである。仕事をすることも、家事をすることと、子育ても、友達といることも、遊ぶことも、飲み食いすることも、運動をすることも、すべてひっくるめて、生きるということである。生活をするのである。
その生きるということそのものに、人はだれしもが、意識的であれ無意識的であれ、「世界を直観する」という実践を伴っているはずで、私はこのことをより意識的に、自覚的に、自分にとっての最適な方法として行いたいと考えているため、読書をすること、そして何かを表現することで、かなえたいと考えているのだ。
それこそボルヘスのように、世界中の「知」を求め、世界に存在するあらゆる本のすべてを読みたいという願望だけは昔からあったわけだが、有限なる存在であるわれわれ人間には、世界の知のすべてを把握することは当然ながら不可能である(むろん私などボルヘスのようにすらなれない)。
世界の知のすべては、神(=世界そのもの)にしかないのであり、この同等の知を得るには、神になるか、もう一つの神(=世界)を造る他ないわけで、これは不条理であり、妄想にすぎない。個物なる存在のわれわれは死を逃れられないことと同様に、世界の総てを知ることなどできない。
では、どうやって「世界を直観する」のか。たとえばスピノザは「共通概念」という形で、人間の理性知における認識、そして認識すること=その喜びを通じて神を直観するのだという形での直観知という方法を提示するわけだが、私はこの「共通概念」とは、ひらたくいえば、世界(=自然法則)における<普遍的な知>であると、捉えている。
人間社会も国家も、資本主義も、表現することも、感情において生きることも、争いも、恋も、戦争も、これすべて、自然の法則の中においてある。それらには、人間の本性からくるとしか言いようがない普遍性がある。
この<普遍的な知>を捉えようとする営みこそが、それこそ世界や人間自身についてを問う哲学や科学、あるいは文学、歴史、社会学、政治学といったような学問にあり、この学問における「知」は、誰かの言葉によって表現され、言葉によって読むものであるゆえ、まずもって読書というものが、このような「知」を得るための手段になるのである。それが外国語で書かれたものであれば、語学もまた必要不可欠であろう。
むろん、この「知」というものは、イコール学問ということでもなければ、読書のみのことをさすわけではない。絵をみる、映画をみる、音楽をきく、スポーツをする、食事をする、それが、たんに意味だけが付加された「情報」ではなく、世界について、他者について、あるいは自己について、人生について、実生活について、なにかしら思考したり判断したり、何かを意志したりという「力」と結びつくもであれば、それは「知」であり「知性」である。
その「知性」のあり方、世界との向き合い方は、人によってさまざまであろう。私にとっての「知」、「知性」とは、この本を読むこと(インプット)、そしてその読むことで受ける力において(スループット)、自身もまた何かを表現するということ(アウトプット)、なのである。
インプットにおいては、より自分の関心が高い、普遍性を伴った学問の「知」である。それが今は、たまたまスピノザという人の哲学が、その関心の最大領域なのではあるが、幼い頃から、この読書における関心の領域というものは変動してきたし、それなりに幅を広げてきたつもりではある。
だが、どんな領域への関心であれ、たんに本を読む、多読するというのでは、これはそこまで情報の摂取と変わらない。私が求めるのは多読による雑学ではなく、それを「力」に変えること、その「力」を駆使した<実行>である。
その「力」があるからこそ、こうしてnoteで記事を書きたいと思えるのだし、仕事での創造性にもつながるのだと信じている。なにより、その行為自体が私にとっての最大の喜びの一つであるゆえ、生きることの活力そものでもあるというわけだ。
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