柄谷行人と浅田彰による伝説の雑誌『批評空間』について語りたい
今はもうあまり知られていない、伝説の批評誌というものがあった。私が伝説としているだけで、世代ではない方、関心がない方にはまったく認知されていないと思われる。
80-90年代の言論空間において圧倒的な影響力を持っていた批評家、柄谷行人と、『構造と力』によりニューアカデミズムの旗手とされた、浅田彰主催による『批評空間』である。この『批評空間』について、柄谷行人が当時を回想している記事があったので、懐かしくなり、取り上げてみたくなった。
これもあまり知られていないかもしれないが、まだ20代の学生だった東浩紀もまた、柄谷行人や浅田彰の影響下にあり、批評家としての才を柄谷と浅田に見出され、『批評空間』第1期第9号(1993年4月)に「ソルジェニーツィン試論:確率の手触り」を掲載し、評論家としてデビューしたのであった。
この柄谷と東がバチバチにやりあう座談会というのがあって、東は柄谷の権威的、いまでいうパワハラ的な振る舞いに嫌気がさし、彼らとは距離を置くようになったといわれる(東浩紀本人がどこかで回想していた気がする)。
蛇足だが、今テレビなどでコメンテーターとし活躍している経済学者の成田悠輔もまた、柄谷行人が立ち上げた社会運動組織『NAM』の学生部門にいた人間である。告白すると、私もこの『NAM』の学生部門に所属していたことがあって、NAM学生が編集担当として刊行した書籍『NAM生成』には、成田氏の名前や、私の名前がクレジットされている。編集といってもそんな大それたものではなく、ただ注釈作りをするという作業にすぎなかったが・・私はこれをつい最近、思い出し、成田ってあの成田かと驚いたことがある(笑)。ご本人は私のことなど一ミリも覚えていないだろうが・・
『NAM』の話は置いておいて、『批評空間』という雑誌は、90年代において現代思想や、文学、批評などに関心がある学生にとってはバイブルのようなものであった。なぜそこまで伝説的であったかというと、この雑誌の企画や編集作業を柄谷行人、浅田彰自身がやっていたこともあり、掲載される論文も、海外のものからも多く、きわめて高度で質の高いものばかりであったからだ。私なんかは、『批評空間』に書かれているような内容はまるで宇宙人の言語のように思えたので、くらいつくために必死であった(笑)。
思想関連の雑誌でいくと当時も今も『現代思想』(青土社)が定番であるが、『現代思想』は哲学者のフォーカス、哲学・思想的な課題を取り上げるのに対し、『批評空間』はその名の通り、「批評」というジャンルの打ち出しが明確にあり、世界や日本における時勢、時代状況への批評に加え、美術、映画、建築、文学などのジャンル批評も豊富であった。
論客として有名だったのは蓮實重彦、東浩紀、大澤真幸、四方田犬彦、磯崎新(建築)、岡崎乾二郎(美術)、山城むつみ、渡部直己、絓秀実、松浦寿輝、福田和也、小泉義之、市田良彦、鵜飼哲、村井紀といったところだろうか。
今はもう亡くなられている方もいるが、その分野を代表する錚々たる顔ぶれが、筆者、論者として名を連ねていた。その他、ジャック・デリダやスラヴォイ・ジジェク、ジャン=リュック・ナンシーなど、海外の哲学者、思想家らの論文も頻繁に掲載されていた。
基本的には、「批評」論文を掲載する雑誌なのだが、「連載小説」が掲載されていることもあり、この『批評空間』で連載されたいた小説こそが、多和田葉子のこれも伝説的作品『聖女伝説』であったり、阿部和重の『プラスティック・ソウル』であった。
われらがスピノザ研究者、上野修もまた、一度だけこの『批評空間』に論者として出演しており、哲学者の小泉義之と『スピノザとフィジックなもの』という、今読んでも色あせていないスピノザをめぐっての討議を行っている。ドゥルーズに引き寄せてスピノザを語ろうとする小泉と、スピノザをテクストのままに読む上野の議論は終始噛み合っておらず、ちょっとした言い争いにもなっていて、今読んでもスリリングである(笑)。
『批評空間』の前身が『季刊思潮』(思潮社)で、その後継として1991年に刊行が開始された。1991年4月から1994年1月までを第1期、1994年4月から2000年4月までを第2期、2001年10月から2002年7月までを第3期とされていて、わずか10年くらいで、読者に惜しまれる形で幕を閉じてしまう。
その背景には編集長であった内藤裕治の急逝も関係していたかもしれないが、記憶は定かではない。柄谷行人自身が、「理論から実践へ」ということで立ち上げた社会運動組織『NAM』の時期とも重なっていたため、批評誌よりも運動だ、という柄谷自身の思いが強かったのかもしれない。
その『NAM』は、わずか二年半くらいで解散となる。当時は柄谷のこれらのアクションについて、「革命ごっこ」「運動ごっこ」と相当な冷やかし、揶揄があった。柄谷の盟友であった浅田彰でさえもこの運動からは距離をおいていて、「唯我独尊の柄谷行人にアソシエーションなどできるわけがない」と『噂の真相』で述べていた。
私もこの『NAM』に所属していたことがあったので、少しばかり私自身のことを回顧すると、私自身は社会変革への想いというよりは、柄谷行人の影響を受けまくっていたことにより加入していたにすぎない(結局そういう人間が多かったことが解散を早めた最大の要因な気がする)のだが、『NAM』のような活動をやっているということを、家族や周囲の友人らに口にすることはそうとう憚られた。上記のような冷ややかな反応は明らかだったからだ。学生であった私には、社会運動にコミットするという信念や覚悟というものがなかった。
当時は、アメリカ一国によるグローバリゼーションが吹き荒れ、金融資本主義が「われら覇者なり」とのさばっていた時代である。マーティン・スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』がまさにそのような時代の雰囲気を的確に描写している。日本にもその風は吹き荒れ、勝ち組と負け組が次第に明確になっていく、まさにその分岐点ともいうべき状況であった。
社会変革という言葉を口にすることも憚られたものだが、柄谷行人の名や、マルクスやらスピノザやらの名を口にすることでさえそうだった。資本と国家と国民が強固に連結した世界構造の根本を変革しなければならない、資本主義のシステムに未来などないので、新たな社会システムを模索しなければならないというのが『NAM』の運動理念だったのに対し、世の中の大きな潮流は、その世界資本主義の構造にいかにうまく乗っかるか、いかに適応し、成功をおさめ、勝ち組になれるか、という流れの方が圧倒的であったからである(今もそこまで変わらない気もするが・・)。
ただ、2024年の現在の世界情勢を見ていると、柄谷行人がやろうとしていたことは、はやすぎたのだという思いは残る。東浩紀は柄谷行人についてこう語っている。
もしかしたら、現代にこそ、『NAM』がかつて持っていた理念というものが必要なのかもしれない。もしくはそのような変革への運動、実践への気運が醸成されていくような『批評空間』のような言論空間の土台が必要なのかもしれない。東浩紀はまさにそのために『ゲンロン』での活動を試みているのかもしれないが、事態はそう簡単ではなさそうだ。
世界情勢は明らかに、20年前よりはるかに悪化している。格差、分断はより明確だ。覇権国家の不在などによる世界各国のパワーバランスの変化、混沌とした状況は、問題をさらに複雑化させているように思える。
社会運動がどうという話になると、どうしても、その思想が左か右か、真ん中か、と問われる。むろん、政治的立場をはっきりさせることは、実践的な運動においては不可避なものとは思う。だが、元格闘家の前田日明が言うような考えは、きわめてシンプルなものなのだが、今のわれわれには響く言葉となっているのではないだろうか。たんに共鳴するのではなく、自分自身で「考える」「動く」ことこそが重要なのだということも肝に銘じて。
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