宮崎駿アニメにおける、神=自然の力としての「風」 誰がその風を見たのか?
「風」とは神の力であるということ
古代ヘブライ人にとって「霊」を意味する「ルアハ(רוּחַ)」は、もともとは「風」に由来するのだという。「霊」とは、「神の霊」「聖霊」のことである。このことは、ユダヤ人哲学者であるスピノザが『神学・政治論』の中で述べている。
その用例として、スピノザは『聖書』に実際に出てくる表現をふまえ、以下のように説明する。
息を示すのに用いられる場合
生命や呼吸を示す場合
勇気や強さの意味にも用いられる
能力や適性の意味にも用いられる
心に感じられたことの意味にも用いられる。またこの意味では意思、決断、心を動かす衝動や激情を示すのにも用いられる
精神そのものやいのちそのものを指すこともある
地上の方角を指すこともある。その方角から吹いてくる風のため
スピノザは他にも、何かが神に関係づけられて「神の〇〇」であると言われるものとして、「神の力」「神の目」などをあげる。ソロモン王の知恵も、とりわけ超自然的な現象ではないのに「神の知恵」と呼ばれていた。神がかった、つまり普通ではないほど優れた知恵ということである。
今でもわれわれは、大谷翔平など、常人には理解できないほどの突出した才能を目の当たりにするとき、「神がかった」などというように、比喩表現としての「神」を用いるが、スピノザは『聖書』における神の表現についても、そのような比喩としての表現、あるいはヘブライ人の昔からの慣習であったという見方を主張するのだ。
これらの聖書分析が当時の聖職者、神学者を激怒させたのは言うまでもない。だが、スピノザは聖職者たちを怒らせるためにそういうことを主張したかったのではない。『聖書』を、超自然的なものとしてではなく、「自然の光」のもと、科学的に読み込み、分析しようとしたまでのことであった。ちなみにスピノザは幼少の頃から『聖書』とヘブライ語のエリート教育を受けており、ヘブライ語文法の書を出すなどヘブライ語を熟知している。そのうえでの『聖書』分析である。
スピノザは『聖書』における神のわざとは、自然のわざのことの意であると結論づける。かつてのヘブライ人たちは、このように自然の力そのものを、「神」と表現していただけなのだと。
スピノザの『神学・政治論』については深くは立ち入らない。ここでは、古代ヘブライ人において、自然と神が同一視されていたということが示せれば十分だ。「ルアハ(רוּחַ)」が、「神の霊」「聖霊」であると同時に、「風」でもあるということ。「精神」や「魂」「精霊」を意味する英語の「spirit」、フランス語の「esprit」、ドイツ語の「Geist」などの語源ともされるラテン語の「Spiritus(スピリタス)」も、「風」「空気」「息」などを意味することから、古代の人々は自然の力を通して神の力を感じていたに違いない。
宮崎駿作品における、「ルアハ(רוּחַ)」としての「風」
このようなことを念頭に置いたとき、日本を代表するアニメ監督の宮崎駿氏が、これまで世に出してきた作品において、なぜ「風」や「飛ぶこと」にこだわるのかが見えてくる。私が指摘するまでもなく、宮崎駿氏の作品においては、「飛行機」は重要なモチーフであり、登場人物らが「空を舞う」「空を飛ぶ」というものは、本人が「作品世界の空間の広がりを意識させるため」という発言をしていることからも、アニメーション上の演出効果という面もあろう。また、宮崎駿氏は無類の飛行機好きであり、空を飛ぶことへの憧れというものが強かったゆえに、ということからも説明はできる。
だが、私が本記事において注目したいのは「飛行機」や「空」ではなく、ほかならぬ「風」の方である。もちろん「風」もまた宮崎駿作品にとっては飛行機や空と不可分なものであるゆえ、この指摘自体に目新しさはない。何よりも、『風の谷のナウシカ』『風立ちぬ』といった作品タイトルが、宮崎駿の「風」への関心をそのまま示している。
しかし私がここで示したいことは、冒頭のヘブライ語における「ルアハ(רוּחַ)」としての「風」を、宮崎駿作品に読み込んでみたいのである。
まず、アニメーターである宮崎駿氏にとって「風」を描くこととは、ヘブライ語の意味がそのまま示している通り、作品に「息」=「命」を吹き込むことなのではないだろうか? もちろんそれは、アニメーション上の動的な効果として、登場人物や自然のうちにあるものを生き生きと、ダイナミックに表現する手法のようなものとしてもあるだろう。それとあわせて、宮崎駿作品にとって「風」は全作品を通底して吹き続ける、作品の「呼吸」、「命」そのもののように思えてならない。
そのことは、『となりのトトロ』がまさしく象徴しているのである。トトロはしばし、自然という神そのものを描いているのだという指摘をきく。また、ずばり「風」が主人公の物語だという解釈もみる。実際に主題歌も『風の通り道』である。大人たちには「風」としてしか感じられないものを、メイやサツキは、トトロやネコバスという形あるものとして見るわけである。『となりのトトロ』においては常に「風」が吹いている。サツキが薪を広いに外に出たら強い「風」が吹き、お風呂に入ってたら家が揺さぶられるほどの「風」の洗礼を受ける。
だがもう一つ、トトロの描写で目を引くのは「呼吸」である。メイが森の大きな木の中で昼寝をしているトトロのお腹の上に乗っている印象的なシーンがある。この時のトトロの呼吸は穏やかである。また、トトロは大きな深呼吸もする。その際には、強風となって木々の葉は揺れるのだ。トトロはおそらく万物の象徴なので、トトロは自然そのものの「呼吸」の意であり、「風」自体は、ネコバスによって表現されている。ネコバスは文字通り、「風」のように走り抜け、ネコバスが通る道は突風が吹きつけるのである。メイとサツキが入院中の母親のところに駆けつけるシーンでは、「風」=ネコバスに乗るのである。
さまざまな形として現れる「ルアハ(רוּחַ)」
この「風」へのこだわりは、とうぜん他の作品にも貫かれている。『風の谷のナウシカ』の舞台はまさしく「風の谷」であり、主人公のナウシカは「風使い」として大気の流れを読む能力を持ち、動力付き小型グライダーのメーヴェを乗りこなす。最終戦争から1,000年後の地球。汚染された大地には異形の生態系である菌類の森、「腐海」が徐々に拡がり、腐海には昆虫に似た蟲(むし)と呼ばれる巨大生物達が生息する。「風の谷」は海から吹く風によって「腐海」の毒から守られている。
また、「風の谷」には多くの風車が設置されており、地下水の汲み上げ、風車による発電などの生活インフラを支える動力として利用されている。ぶどう果樹園の受粉にも「風」がであり、「風」によって揚力を得てグライダーによる移動を行う。ここでの「風」は人間の営みを支えるものとして、まさに自然の力そのものの象徴として描かれている。
だが、その「風」が途絶える時、災いが起きるのである。王蟲(オーム)が錯乱し大移動を開始する。「風の谷」では風が止むことはないはずなのだが、物語の中で風が止むのである。これについてはさまざまな解釈があろうが、王蟲の大群の接近により、自然(神)の「ルアハ(רוּחַ)」=「呼吸」が途絶えたのではないか。
宗教学者の正樹昇氏はこの『風の谷のナウシカ』における、アニミズムとしての「風」を読み解く。
この人間と自然の共存や対立という関係性を描いた『風の谷のナウシカ』の構図は、『もののけ姫』にも受け継がれている。『もののけ姫』のシシ神様は首を失い自然の脅威そのものとして描かれるが、首を取り戻すと最後は強烈な「風」となって消えていく。そして一度破壊された自然は再生され、その風を浴びた病者も回復する。シシ神様は「命」そのものとしての「風」であったのである。
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宮崎駿作品においては「風」が吹くところに物語世界があり、ときに飛行する乗り物を使って「風」になることが、この世界の力を利用して生きること、この世界と向き合うことを意味するであろう。『風の谷のナウシカ』で出てくる飛翔のための「風」。これらは『天空の城ラピュタ』、『紅の豚』、『風立ちぬ』、『ルパン三世 カリオストロの城』、『ハウルの動く城』、『千と千尋の神隠し』においても同様である。
そのすべてに言及する余裕はないのだが、宮崎駿氏にとってこの「風」の使い方には、もう一つ重要なものがある。とりわけ『魔女の宅急便』においてより顕著に描かれているものでもある。それは、スピノザが整理した「ルアハ(רוּחַ)」における5つ目の意味、「心に感じられたこと、意思、決断、心を動かす衝動や激情」である。『魔女の宅急便』も観ている者が多いと思うのであらすじは不要と思うが、魔女として修業するキキの、空を飛ぶという行為は、そのまま彼女の心理描写(感情)を表現しているのである。
まさに「心に感じられたこと、意思、決断、心を動かす衝動や激情」である。ある時は自信たっぷりに、ある時は穏やかに、ある時は荒々しく、ある時はおばあちゃんのニシンのパイを届ける使命感として。そしてある時はまったく無気力に、と同時に魔法の力も失っていくのだが、トンボが危機に見舞われてしまい彼を救出する時においては、おのれの力を信じ、その力=「風」を取り戻すのである。それは「ルアハ(רוּחַ)」の3つ目の意味、「勇気と強さ」の意でもあろう。
このキキの飛ぶ力、風を使う力は、「ルアハ(רוּחַ)」の4つ目の意味、「能力や適性」をも意味するかもしれない。その能力は、キキにおいては魔法として象徴されるが、誰においても何かしら有しているものであり、その「ルアハ(רוּחַ)」=能力を十分に発揮できるかどうかということは、感情の能動/受動によって大きく左右され、またその能動/受動という精神構造は身体と連動していることがこの作品では指し示されている。
実際にキキは、魔法が使えない時、無気力=悲しみの感情に入り込んでいただけでなく、<風邪>もひいていた。風邪は、風によって運ばれてくる「邪気」が体内に引き込まれることで風邪になると考えられ、この言葉となっているそうだ。古代中国において「風」は単なる大気の動きだけでなく、人の身体に何らかの影響を与える原因として考えられていたのだ。「ルアハ(רוּחַ)」が「精神」の意味を持つことも想起させる。
宮崎駿作品と「風」の関連性は、他にもいろいろ論じることができるであろう。たとえば『千と千尋の神隠し』の「神隠し」もまた、トンネルに入ろうとした時に風が吹きつける。千尋は嫌な予感がして「私はいかないよ」と言う。昔から神隠しとは、風が吹くときに起きやすいのだと言われている。
さて、文字数もだいぶ増えてしまったので、いったんこのあたりで雑考を止めにしたい。
最後に『風立ちぬ』の冒頭における、クリスティナ=ロセッティという方の作詞、西條八十という方の訳出による、以下の詩で締めくくりたいと思う。