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日曜午後の倦怠とコナトゥスの迷子

 週末の休みは待ちきれない。やりたいことがありすぎて待ちきれないほどに心たかぶっているはずなのに、いざ週末をむかえると、何もやる気が起きず、だらだらと時間だけが過ぎていき、結局何もできなかったということはないだろうか。

 本が読みたい、noteが書きたい、映画が見たいといったように、週末のToDoを頭の中で組み立てていても、なぜか本を読む気が起きない、記事を書こうと思ってもまったく書く気がしない、なんならつい昨日まで書けると確信していた内容が、私なんかにはとても無理とさえなってしまい書けない状態のまま一日が終わってしまう。

 このような倦怠感は、週末に限ったことではないが、話をわかりやすくするために、日曜日の午後は特にそうだといっておこう。これはお馴染みのブルーマンデー症候群、通称、サザエさんシンドロームだ。これらは、医学的、心理学的にも説明が試みられているし、私は専門家ではないのだが、私なりにこの、週末に起こる倦怠感、土曜日に起こるものと、日曜午後に起こるものの現象の説明を試みてみたい。

 毎度スピノザで芸がないと思われるかもしれないし、私も毎回スピノザを登場させていることにだんだんつらくなってきているのだが(笑)、私なりの解釈も加えているので、どうかご辛抱いただきたい。

 スピノザは心身並行論の立場をとる哲学者であり、心身並行論とは、身心は同一なるものの、「異なる二つの表現」であるという考え方だ。これと正反対の考え方は心身二元論と呼ばれ、心身二元論においては心身はそれぞれに独立した実体であるとする考え方で、デカルトに代表される。現代科学においては後者の考え方は劣勢になっている。

 心身並行論においては、身体と精神は同じ事柄の二つの異なる現れ方である。これは属性(延長と思惟)が異なるものの、実際は同一のもの(実体)である。そしてこの並行論においては、精神とは身体の観念のことをさす。猫Aには猫Aの観念がある。机には机の観念がある。というのと同じように人間身体には人間身体の観念があり、この観念が人間においては精神と呼ぶものである。

 身体の観念には、自身の身体のみならず、さまざまな外部要因、今、身体が外部から受けているもの、それは酸素しかり、日光しかり、食べ物しかり、着るものしかり、どの地域のどの場所にいるのかしかり、そういったほとんど無限にも近い外部と私の連鎖関係も含めての観念が並行している。これが身体の観念として、思惟属性としての精神と呼ばれるものである。ここからもわかるように、精神は無限の連鎖関係の観念なのだから、それはきわめて複雑なものである。

 この精神には、私という自己ではとらえ切れない認識が含まれている。いわゆる無意識と呼ばれているものだったり、夢なんかもそこに含まれよう。これらは、すべての連鎖関係を認識する神のアスペクトにおける精神である。これを仮に大文字の精神「精神A」としておくと、私たちが普段、意識下において捉えている精神とは、精神Aのごく一部、あるいは混乱した認識として捉えているものにすぎない。これを「精神a」とする。

 しかるに、われわれ人間は、自己は、この「精神a」こそが精神のすべてであると考えている。それしか認識できないので、認識できるものが自分のすべてであるとなってしまうのは、それはそうであろうとしかいいようがない。これもまた、われわれの条件だ。だが、神=自然は、「精神A」として、すべてが説明尽くされた十全な観念を持っている。

 このことを前提として、以下の図をみてほしい。現在、今ここに私の身体=精神があるとする。この精神は精神Aしかないのだが、私たちにとっては常に「精神a」として捉えられている。

 この「精神a」、人間の精神は、過去や未来を表象することで認識する。表象することができるゆえ、「精神a」は、常に未来の精神、過去の精神を、それぞれ先取りしたり、追想したりすることが可能である。来るべき未来にに対してのわくわく感、過去へのノスタルジーなどの感情は、今を起点にした感情として説明することができるだろう。しかし、これらは「表象」でしかないことに注意したい。

 今ここにある精神が、未来の精神、過去の精神を表象したところで、それに対応する身体があるかというと、これは実在しないのである。未来の身体は時間が経たなければないわけだし、この身体を過去に戻すことは不可能だ。だが、あらかじめ未来の精神を先取りしたまま、未来をむかえるとどうなるか。その時の精神と身体の状態が、そのまま一致しているのであればよいが、不一致となってしまう時があるはずだ。その不一致こそが、週末にむかえてしまう倦怠感の正体なのではないだろうか。

 つまりこういうことだ。金曜日、仕事終わりの私は、週末の休日に何をしようか、未来を先取りする。まだ「金曜日の身体」のはずなのに、心は「土曜日の精神」に向かっているのだ。で、いざ土曜日をむかえたとき、「土曜日の身体」が、先取りしていた「土曜日の精神」に追いついていればよいのだが、追いつかないことはいくらでもありうる。

 仕事で疲れすぎている。酒を飲みすぎた。いや、なんともないはずだ、と思っていても、上司や後輩の言葉に傷ついている、など。実際の身体は、さまざまな要因によりその活力が減少している。土曜日の実際の身体が、期待されていた「土曜日の精神」に追いついておらず、そこにGAPが生じてしまうのだ。とうぜん、実際の身体の状態には追いついていないので、精神は実際の身体の状態へと調整がかかる。上昇していた精神は、現状の身体の状態に戻るべく下降していくだろう。この下降していく状態が倦怠感のようなものではないだろうか。

 身体と精神は常に並行関係にあるといった。だから、身体が疲れていれば、精神も同じように疲れている状態であるはずなのだ。このような一致は神のアスペクトにおいて、真理としてある状態だ。真理は揺るがない。だが、人間は「精神a」によって、表象としての認識を持つばかりに、自分の身体は大丈夫なはずだと錯覚したまま翌日をむかえる。実際にはそうではなかったということで、このようなGAP、混乱した認識が生じるのではないか。

 酒をさんざん飲んで騒いだ夜の次の日の目覚めでもこのような状態が起きる。前日にアルコールで感情の抑制がきかなくなり、はしゃぎまくった昨晩の精神状態を引きずったまま目覚めることになるのだが、酒でやられた身体の疲れに応じて精神もやはり減少しているのだ。昨晩のいけいけの精神状態を錯覚している「精神a」が、実際の「精神A」の状態を認識していく。だから「減少している」ように感じる。飲んだ次の日のローテンションはそのように説明できる。

 スピノザはこれを、コナトゥスによって説明する。コナトゥスとは、存在するものが持つ自己を保存しようとする力、存在することへの執着、維持しようとする力である。現代生理学でいう「恒常性(ホメオスタシス)」の原理に近い概念である。この人間のコナトゥスの増大、減少は、そのまま身体の活動能力の増大、減少に関わっている。そしてそれは同時に精神の状態の表現でもある。活動能力が上昇すれば精神は喜びの感情で現れ、活動能力の下降は悲しみの感情を伴うことになる。

 ブルーマンデー症候群も同じ原理で説明できそうだ。こちらは、週末の休みによって回復していた心身のうち、精神が、「月曜日」という未来を先取りしてしまうのだ。待ちわびている週末の先取りとは異なり、待ち望んでいない未来の先取りのため、浮足立っていた週末の心身状態が、その未来を表象するばかりに下降していく(と錯覚する)。ただし、月曜日になると、それはいつもの月曜日の心身であり、予想していたとおりのものでもあるため、休日の倦怠で味わうようなGAPというものはない。平常運転になるだけである。

 これらは、週末の倦怠感に限らず、たとえば理想と現実のGAPにより苦悩してしまうことの説明にもなりそうだ。たとえば、未来の理想ばかりを追いかけてしまう人は、実際の自分の身体状態=現在の能力とに、認識のGAPが生じていると考えられる。私も、作家になりたいと夢見ていた時があったが、本来の私はこうであるはずがない、もっと書けるはずなのだという思いにかられてしまうのだが、実際は書けず、もがき苦しむことになる。これは未来の自分に対する期待が高すぎるのだし、その未来の自分を先取りしてしまうからであろう。同じように過去についてもいえる。過去の栄光にすがりつくというのは、過去の自分を追想という形で表象し、現在の状態との認識のGAPを生むのだ。

 人間はコナトゥスにより、自己の力を最大化しようとするが、コナトゥスは一律ではない。それらは外部の原因により、容易に上昇したり下降したりするものである。ただ、週末にやってくる倦怠感というのは、ある種、このコナトゥスの調整活動といえなくもない。そう、コナトゥスは週末やどこかのタイミングで、立ち止まってしまったり、迷子になってしまう時があるのではないだろうか。そのコナトゥスの本来の道筋を見つけてあげなければならないのだ。

 ではどうすればよいのか? 倦怠感や無気力感は、なくしたいと思ってなくせるものではない。私などは、そのような状態にある時は、自分の身体に従い、「精神a」で抵抗することはやめることにしている。身体が欲してなければ、それはやらない方がいいのだ。身体が疲れすぎているなら寝ることで休ませるし、そこまでではないんだよなというときは、ほどよく運動し、あれもやりたいこれもやりたいと先取りしていた未来への期待感を一度手放すのである。

 そうこうしていると、その倦怠後の次の日になると、なぜか急に書きたいものが書けたり、読書が思いのほか進んだりする。迷子になっていたコナトゥスが道筋を見つけ、心身の状態が合致していると感じる時が訪れるのである。

 本記事でも示したように、「精神a」による認識において、過剰に未来を先取りすること、執拗に過去に固執することは、「今ここ」における自己の力を弱めてしまう原因になりうるのではないかということである。現代社会においては、しっかりと自分の未来を計画し準備することがよいとされる。しかし、その未来を過剰に意識しすぎると、今やるべきことが容易に見失われてしまう。実力もないまま、未来の見返りばかりの思いが膨らみ、そのGAPがいやで、すぐに結果を求めショートカットしようとしてしまう。

 また、スマフォでの情報過多というのも、私はこれはある種の現代的な未来の先取り問題に思えてしまう。いろいろな情報が溢れすぎているのだ。溢れすぎていて、あれもこれもとなってしまう。あれもこれもの可能性を抱いてしまう。受容してしまう。そこにあれもこれもの他者との比較の感情が入ってくる。「今ここ」の私の実態を、実力値を、見失わせるまでに、過剰なもので溢れているのだ。

 その結果、常に「何かやりたい」という精神で満ち満ちているはずなのに、なぜか何もできないという現実をみて、そのGAPに苦しむことになる。これも、並行している実際の心身状態と、自身の「精神a」の錯覚による認識のGAPである。未来に期待しすぎていると同時に、自分にも期待をかけすぎているのだ。

 自分の身体は、自分の身体ができることしかできないということをまずは知るべきなのだと私は思う。つまり、自分自身に期待をかけすぎないということである。過剰な未来や期待の先取りは、コナトゥスを迷子にしてしまうのだ。でも、そうはいっても、あの人は、この人は、周囲は・・・親が、上司が、とさまざまなプレッシャーがあるとしよう。私などは、そういった場合でも「何かしなければ」と焦るのではなく、「今、自分にとって自然なことは何か?」を考えることに努めようとしている。もちろん努めているだけで実際には難しいことも承知している。

 だが、できないものはできないし、やりたくないことはやれないのだ、とある種の開き直りも、ときには必要ではないだろうか。認識のGAPは誰にでもあるものと思う。倦怠感や無気力感は常にやってくる。それを焦って打ち消そうとするのではなく、そのGAPはどうして起きるのかと観察してみると意外と面白い。そう、私のこの記事のように。この記事を書くきかっけは、何より昨日の私が倦怠感にまみれていたからだ(笑)。

 しかし、今こうして、自身の倦怠について俯瞰して書いている間だけは、その倦怠から自由になっていることを感じている。


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