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念じることは力になる、は本当か 「念力」を哲学する その2

 私は前回の記事で、「念力」について考えてみた(下記関連記事参照)。

「念力」というと、われわれはすぐに超能力的なものと結びつけてしまう。『スターウォーズ』には「フォース」というジェダイやシスだけが使える力の概念がある。その中でも、念ずるだけでものを動かす力があり、これらはサイコキネシスとかテレキネシスと呼ばれる。

 私はこのような超能力的なものとしての「念力」から離れて、もっと違う意味での念じる力、たとえばわれわれは生まれてからすぐに自分の名前をつけられたり、母親によって覚えさせられる言葉によって行動や思考方法が規定されたり、自分自身が発する言葉で自己暗示をかけたり(セルフ念力)、憲法や法律のような言葉もまた、そのような思考=意思がわれわれの行動を作っていくといったようなことを紹介してみたのだが、私はどうやら少し難しく考えすぎていたようだ。

 というのも、明治大学情報コミュニケーション学部准教授の蛭川立氏がすでにこのような問題を考えていて、蛭川氏による次のような文章に行き当たってしまったからであった。

たとえば、スプーンを念力で曲げると(曲がったとして、であるが)、超常現象だとされるが、スプーンを筋力で曲げると、通常現象だとされる。念力で曲げたふりをして筋力で曲げると、不正行為として糾弾される。しかし、なぜ念力は超常現象で、筋力は通常現象なのだろうか。

筋力の場合は、脳の運動野の神経が興奮して、その興奮が運動神経を伝わり、筋肉を収縮させるというメカニズムが明らかだから、通常現象のように思われる。しかし、そもそも、筋肉を(そしてスプーンを)曲げようという意志が運動野の神経を興奮させるのだとしたら、それもまた念力であり、超常現象であるとはいえないか。(エックルスの二元論)
※強調引用者

https://www.isc.meiji.ac.jp/~hirukawa/text/m-m_problem.htmより

 そう、念じることは力なり、というのは、われわれは日常において当たり前のように実践しているのだ。指を曲げる。割りばしを二つに割る。バナナの皮を剥く。これらは、筋力においてそうしているから通常現象なのだが、この筋力を使うためには、感覚神経から情報を得た脳や脊髄にある中枢が、指を曲げよ!という指令を出し、骨格筋につながっている連絡役としての運動神経が、中枢からの指令を実行するわけだが、いわば「念」が、そのまま「力」=実行になっている最たる例なのではないだろうか。

 しかし、これが自分の身体を介さず、外部の物体を動かしたり曲げたりするとなると、そのメカニズムが不明なため、超常現象の類だとして非科学に分類されてしまうのだ。そして蛭川立氏は、このような分類は、われわれの脳を「心」としてとらえている暗黙の前提があるからなのだと説く。

腕や指が曲がるのが「通常現象」だとされるのは、メカニズムが既知であるからにすぎない。脳の運動野の神経が興奮し、その興奮が運動神経を通じて電気的に筋肉細胞に伝わり、筋肉を収縮させる。そこにはなんの不思議もないように思えてしまう。しかし、念力ではなく、こっそり筋力でスプーンを曲げているのだということが明らかになれば、それでトリックは暴かれ、一件落着なのかというと、じつは、そうではない。そこには、脳=心という、暗黙の前提がある。

論文『心物問題再考 ―「超心理学」という自己矛盾の克服に向けて―』蛭川立

 われわれは、指を曲げる、箸を持つといった、身体機能の一部としての脳の活用においては「通常現象」だと呼ぶのに対し、超常現象を見る場合には、脳を身体から切り離し、脳=心ということを前提としてしまっているのだ。だからその「心」が、通常には理解できないことを実現してしまうとなると、それは「超常現象」とされてしまうのだ。

厳密には、物質現象である脳と、精神現象である心や意識の間には、並行関係はあっても、それを同一視するのは、カテゴリの混同である。もし、脳と心が別世界の存在だとすれば、なんの不思議もない「通常現象」である「指曲げ」も、指を曲げようとする意識がPK(Psychokinesis:念力)によって脳細胞に働きかけると説明するしかなくなってしまい、けっきょくスプーン曲げと同型の超常現象になってしまう。

論文『心物問題再考 ―「超心理学」という自己矛盾の克服に向けて―』蛭川立

 蛭川氏が言いたいことは、身体的、物質的なものである脳と、心や意識とされる精神というものは並行関係(心身平行論)はあっても、同一ではない。これらはそもそも扱っているカテゴリーが違うということだ。かといって脳と心が、身体と精神という形ではっきりと区別されるものなのだとすれば(心身二元論)、それはそれで、心が命じて身体を動かすというメカニズムにおいて、「通常現象」と「超常現象」の区別はなくなってしまうであろう、ということである。

 これは、鋭い指摘のように私には思える。「心」というものを独立したものとみなし、その「心」が外部の物質に対して「超越的」に与える力はとたんに「超常現象」とされるのに、科学的に心を解明しようとする、たとえば心理学といった学問は、「心」を「脳」と同一視してきて、矛盾の生じないものだけを対象にしてきたのだと蛭川氏は言う。

 そして矛盾の生じてしまう現象は、「超心理学」という奇妙な分野に押し付けてきたのだと指摘する。そのようにして心理学は「心」を「脳」の作用として科学的なものとして捉えてきた。それにもかかわらず、たとえば「自由意志」のようなものだけは「心」の最後の砦として、脳とは異なり「独立」したものとして見立てていることに、蛭川氏は疑問を呈しているのだ。

じつは、物質的な宇宙の中に自由意志を持った心という異なるカテゴリが存在し、かつそれが、それを進化させた物質的な宇宙を自己言及的に認識し、自己言及的に作用することのほうが、むしろ超常現象と呼ぶのに相応しいのである。そして、その心や意識という、物理学的にみれば超常現象とみえてしまう現象を扱う分野が心理学であり意識研究そのものであるはずなのだが、近代的な心理学は、その成立過程で物理学と同様の科学であろうとしてきた結果、基本的な矛盾を抱え込んでしまい、そのモデルで矛盾が生じない現象のみしか扱えない分野になってしまったといっても過言ではない。そして、 そのモデルが破綻してしまう自己矛盾を、超心理学という奇妙な分野に「しわ寄せ」してきた のである。

論文『心物問題再考 ―「超心理学」という自己矛盾の克服に向けて―』蛭川立

 つまり、「心」の扱いにはパラドックスがある。学問たろうとする場合には、身体機能として、科学としての「心」は「脳」と同一というスタンスであるのに対し、人間の「自由意志」を論じるときは「心」は身体から独立したもの、心身二元論に立ってしまっているということだ。

 だが、蛭川氏は、人間がゼロイチで自由に意思を取り扱えるのだという「自由意志」の方がよほど「超常現象」ではないかというわけである。蛭川氏はさらに、こんなところまで踏み込む。

いわゆる霊魂の死後存続の問題にしても同様である。臨死体験は「あの世」が実在する証拠なのか、脳が作り出している幻覚なのかという論争があるが、それは不毛である。というのも、そもそも「この世」は実在するのか、それとも脳が作り出している幻覚なのかという問いからして、実証的に示すことができない以上、問いの形式自体に誤りがあるのである。

論文『心物問題再考 ―「超心理学」という自己矛盾の克服に向けて―』蛭川立

 蛭川氏は、この世界が、映画のような『マトリックス』であるのか、そうでないかのハードプロブレムも踏まえながら、霊魂やあの世といった話だけ非科学的なものとして取り扱うのはいかがなものかと主張しているように思える。つまり、それだけ「脳」と「心」の問題とは、まだまだ「非科学的」な領域であるということだ。

そうであるのなら、現行の心理学を、たとえば行動科学などと呼びかえ、現行の超心理学こそを「超」のつかない、ただの心理学と呼べばよい。それが現実的ではないのなら、意識研究とか、意識科学と呼んでもいいだろう。いずれにしても、そうすれば、超心理学という奇妙な呼称自体が不要になる。そもそも、心や意識という現象自体が、物理学が扱う物質世界とはカテゴリの異なる「超常現象」だからである
※強調引用者

論文『心物問題再考 ―「超心理学」という自己矛盾の克服に向けて―』蛭川立

 そう、心身問題とは未だに人類が解決できていないハードプロブレムであり、「我々は身体が何をなしうるのかさえも知らない(スピノザ)」のである。だが、この心身問題にはここでは踏み込まない。今なお議論の終着をみない、とても難しい問題であるからだ。

 ただ、蛭川氏が指摘していることは重要である。すなわち、「心」による「念力」を超常現象として斥けるのではなく、「通常現象」として捉えなおす(科学する)ということである。そうでなければ、「心」自体が「超常現象」というべきものなのだから、「心」に関するものはすべて「超常現象」とみなすべきだ、ということであろう。

 さて、本記事で紹介してきた心身問題の議論については、結論を見るのはだいぶ先になることであろう。ここまで紹介してきた内容に対しても、反論、反証はありうると思う。ただ、蛭川氏の認識は、心身平行論、自由意志の否定の立場に立っており、かつ非合理的なものとされるものと合理的なものとされているものの区分の「曖昧さ」を提示している点においてきわめて興味深い。いずれにおいても、現象という結果に対し、正しい「原因」を捉え、十全な認識を獲得しているとは言い難いからだ。しかし、フロイトが示したような心の「無意識」自体が、いつか正しく解明できるものなのかどうかもあやしい。人間の身体=精神は、神の知すなわち無限なるものを扱うに等しいからだ。

 最後に「念力」のさらなる具体的な事例を紹介しておこう。調べれば調べるほど、私の認識は遅れていることがわかった。「念力」は、すでに実用的なものにむけて具現化されているのだ。

 ブレイン・マシン・インターフェイスがそれである。ブレイン・マシン・インターフェイスとは脳とコンピュータをキーボードなどのインターフェイスを用いず、直接に接続して情報をやり取りする技術である。脳と機械をつなぎ、念じたとおりに動かす。この技術の開発競争が、世界で激化しているとのことだ。

 
 これらの技術は、われわれの身体機能の延長においてある、といえる。脳=心が、身体から切り離されているわけではないということで、「心身二元論」を裏付けるものにはならないであろう。その意味で、やはり「念力」はわれわれの身体と共にある「通常現象」として捉えていくことができるはずである。


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