「どうしたの、顔色悪いよ」 彼がバックパックを小さなソファに置きながら訊いた。 カリモクの彼のお気に入りのソファ。 「なんでもない」 私はそう言ったけどぎこちなくなってしまった。 「なんでもなくなくない?」 彼は心配そうな表情で私の顔を覗き込んだ。 「・・・こないだ大学時代のみんなと食事したじゃん」 「うん」 「素敵なご夫婦がやってるお店」 「あーなんか有名なシェフって言ってたね」 「離婚したんだって」 「ふぅん。それがどうかしたの?」 「どうもしな
元奥さんはどういう心境で 今も彼の横に立ち ビジネスパートナーとして歩んでいるのだろう あの小柄で目立たない女性は 案外したたかに割り切っているのだろうか とっくのとうに愛は冷めていたのだろうか 離婚が明らかになる前、シェフの名前を調べたとき 平凡にも温かく「妻」への感謝を述べていた。 それも単なる「セルフプロデュース」の一環だったのだろうか そして今度は新しい妻のことを検索した。 モデルの妻は細く背が高く黒髪が妖艶で 「主人が」「主人の」 と恥ずかし
そのとき誰も口にはしなかったけど 何となく冷めた空気が漂い 『え、彼女が彼の奥さん?』 と皆が残酷にも感じていたのが伝わってきた 華のある男に対し 野暮ったい見た目の中年女性 不釣り合い だけど 腕がある。センスがある。 彼の出世には欠かせない奥さんの存在 私は彼女の才能を「担保」にふたりは別れないんだろうな、と勝手に思った でも違った それから本当に間もなくのことだった LINEグループで食事会のメンバーからご丁寧に 彼らが実はもう離婚しており「
それは戦慄の体験だった。 大学時代のちょっとした同窓会みたいなものがあった。 相変わらずグルメな先生がお店を選び 元女子大生の仲間がわらわらと集まる 先生が選んだのは 私は知らなかったが 雑誌等のメディアにもよく登場している 人気シェフのお店だった 女性ばかりでかしましく 先生も上機嫌でワインをあけた。 デザートのタイミングになっても 私たちのテンションは下がらず スマホできゃっきゃっと騒ぎながら 綺麗なデザートを撮ったり自撮りしたりしていた 「お
ちらっと覗いた彼のスマホの画面は LINE通知が流れるように続いていた 「私のことって内緒だった?」 「うん…ごめんね、先輩にきつく言われて」 「ううん、マツイくん悪くない どうやって抜け出したの?」 「猫が元気ないって。 猫が元気なかったら早く帰るしかないやん?」 「エア猫やん?」 「違うよーここにはいないけど、まるがほんとに元気ないんだ」 「そうなの?」 「うん」 彼は私に実家とのLINEのやりとりを見せた ぴこん 可愛い女子のアイコンが現れる
彼は合コンに行くことは報告してくれたけど それがいつなのかは特に言わなかった。 でもある日帰宅して 匂いでそうかなと思った。 「どうだった、合コン」 こういうのを『鎌をかける』と言うのかな。 「うん。何で分かったの」 彼は目をぱちくりさせた。 「香水」 「はは、浮気できないねー」 浮気できる人のが気楽かも。 この人は融通が利かないから本気になるだろう。 「うん、香水の・・・匂いがしんどかった。 服に移らないかと思ったけどやっぱ移ったんだね」 彼はた
怖い夢を見た 夢なので何の脈絡もないけど 母親が海で溺れて 意識を失い蒼白になっている夢だった 父親が母を助け 私は遠くからふたりに近づこうとしてる 父親はなぜか 来るな! と怒鳴るけど 私は狂ったように お母さん!お母さん! と連呼し泣き叫び ふたりに近寄った 母は蘇生し命は助かって 私は母を抱き締め わあわあ泣いた …という夢 7時近かった 私は目を見開いて 大きく息をした 「大丈夫?」 横で寝ていた彼がもぞもぞと動いた 「…怖
彼女がいるのに合コンに行くのが 彼の正義に反していて 彼はごめん、と言ったのだろうけど それには 自分がモテてしまう自覚も含まれていたと思う 世の中にはイケメンに目ざとい人たちがいて (女性だけではない、 彼の先輩は男性だし) 彼が眠そうな目をしていても 髪をセットする時間がなくて ぼわっとした髪型のまま外出しても センサーのように イケメンを掘り出し発見するのだ そして私にはその能力が欠落してる それだから職場の人に見つかるまで 彼とのうのうと
「かわいそう、マツイくん」 「え?」 思わず心の声が出た 「行きたくないのに行くんでしょ」 その意味もあった 彼は本当に興味が薄いと思う 彼はそういうお金があるのなら 趣味やキャリアに使いたいタイプだ 多くないお給料でやりくりしてるのを知っている 「私のことは気にしないで せっかくだから少しは楽しめるといいんだけど」 「そうだね…ごめんね」 「ほんといいの。 言ってくれてありがと。 私もたまには飲みに行こうかな」 彼は力なく微笑んだ 先輩の気持
彼は帰宅すると 少し困った顔をしていた。 感情の起伏があまりない彼がたまに見せる表情だ。 「どうしたの」 私が訊くと待ってましたと言わんばかりに 堰を切って話し出した 「ごめん、コンパに行くことになった」 私は目が点になった そうか、そんなこと今までなかったかも 大学生時代は飲み会という名の合コンがあったかもしれない でも彼は 「騒々しいの苦手」 「騒々しくて食べ物も味わう場じゃないしお金もかかる」 と言って毛嫌いしていた 今は仕事のために人脈作り
朝起きると つい癖で昨日までのように前髪を横に流してしまった。 私は簡単に変われそうにもない。 彼はいつの間にかどんどん洗練されていって 「都会の人」になったのに。 今の彼ももちろん好きだけど 好きになった当初の 幼くて(私も幼かったけど) 部活で髪が短くて 素朴でどこにでもいる高校生だった彼には あたりまえだけど もう二度と会えないんだと思うと 切なくなる 今の彼は私には眩しすぎて 本当に自分でも不釣り合いで似合わないと思う つきあっていていい
彼は帰宅すると 「いいじゃん」 と髪のことを微笑んで誉めてくれた 「ありがとう、予約してくれて」 言いたいことは一呼吸置いてから言うタイプだ 「まっちゃんなのね」 「距離近いよね」 彼は笑った 「かみちーとか言われなかった?」 「ないない」 名前すら呼んでもらえなかった 『彼女さん』だった 「モデルしてる写真見たよ」 「あー。笑えるでしょ?」 彼は温めたごはんを食べながら笑った 私はうん、と笑ったけど 内心いっこも笑ってなかった 「かっこよか
私は知らなかった 美女だけでなく イケメンも得をすることを 美女に生まれてくると得、とは聞いたことがあったけど イケメンも得をしていた 彼はカットモデルをして 美容院は彼からお金を取ってなかった 一方 私は普通にお金を払った 15000円くらいだった 髪は彼と同じ色になって ハイライトも入れてもらった 彼が就活の時に指南してくれた 前髪の角度を私はずっと守ってきたけど 少し透いて下ろしてもらった 早く去ろう ごめんなさい、可愛い彼女じゃないのに
仕事終わりに地下鉄に乗って美容院に向かった 『彼と同じカラーにしてください』 と言えばいいだけ レセプションで名前を言って席に案内された 「どうも、はじめまして」 マスクをしていてもめいっぱい笑顔の男性が現れた 「まっちゃんの彼女さんですよねーお世話になってます!」 まっちゃん? マツイくんのこと? 「今日はどうされますかー、カラーしたいって聞いてますけど」 私は鏡越しに少し視線を感じた しまった 意識してなかった 美容師の人たちに 「まっちゃん」
『いつ行きたい?候補日教えてくれたら伝えるよ』 彼から返事が来て、私はそれに甘えることにした。 平日の19時以降でなるはやで、 と業務連絡みたいなLINEをした。 その後、彼からスクショ画面が送られてきた。 美容師さんとのLINEのやりとりだった (美容師さんとそんなに仲いいの?) 地味で大人しかった高校生の印象で止まっているから 社交的な彼に戸惑ってしまう なんとなく内向的な印象だった 彼は社会人になってどんどん外向的になっているみたい 仕事柄、横のつ
私は彼にLINEして 彼がいつもカラーしている美容院を尋ねた。 学生の頃はお金がなくて 彼の髪を切り揃えたこともあった 彼はそれくらい無頓着だった 思えば就活くらいから 彼のメタモルフォーゼは始まっていたのかもしれない 彼は頭のいい人で 自分をどう見せれば就活に有利か 直感的にわかっていたように思う あの頃の彼はイケメンとは気づいていなかったけど どこからどう見ても どの世代が見ても 「ザ・好青年」だったと思う 私も彼から細かいアドバイスをもらって