jijimatsu_kun

歴史好きのおじさんです。

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最近の記事

明治のはなし(あきつしま)31

明治30年 1897年、日本はついに金本位制を導入した。これにより日本の経済は世界経済と接続され、急速な成長への礎が築かれることとなった。明治の人々は、新たな貨幣制度によって、日本がさらなる発展へと踏み出す姿を目の当たりにし、自信と誇りに胸を膨らませていった。 その一方で2月、朝鮮では高宗が慶運宮(徳寿宮)に還宮した。しかし、慶運宮の裏門はロシア公使館に直接通じており、この動きが単なる慶運宮への還宮ではなく、ロシアの保護下に入る暗示と見られ、周囲の国々に不安を抱かせた。慶

    • 明治のはなし(あきつしま)30

      明治29年 1896年、清国と日本との戦争は終結し、その後の東アジア情勢が激しく動き始めた年だった。この戦争の結果、清国は朝鮮の独立を正式に認め、戦争の賠償金として日本に2億両(テール)を英国ポンド金貨で支払い、さらに遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲することを承認した。日本国内ではこれを大きな外交的成果と喜ぶ一方、東アジアのパワーバランスはこの新しい秩序の中でさらに不安定になっていった。 4月23日、突如としてロシアがドイツ、フランスを巻き込み、日本に遼東半島の還付を要求し

      • 明治のはなし(あきつしま)29

        明治28年 1895年2月11日、朝鮮の高宗は、長らく続いた清国の影響を退けたいという願いを抱きつつも、隣国日本の軍事力の脅威にも怯えていた。高宗は不安定な宮廷政治の中、宮殿での活動が制約されることに耐えかね、ついにロシア公使館に保護を求めて景福宮を脱出した。ロシア公使館は高宗の要請に応じて彼を受け入れ、これにより朝鮮の親ロシア政策が始まることとなった。朝鮮王宮の一角には緊張が漂い、朝鮮の政治は混迷を深めていったのである。 一方日本では、4月1日に京都で平安遷都1100年

        • 明治のはなし(あきつしま)28

          明治27年  1894年の夏、日本では大きな国際的成果が達成されようとしていた。日本の外務大臣である陸奥宗光は、長年の懸案だった日英通商航海条約を見事に締結し、領事裁判権の撤廃に成功する。これは日本が欧米と対等な国家として国際社会に認められる一歩であり、国内には歓喜が広がっていた。陸奥は「これからは日本も堂々と国際舞台で活躍する」と語り、日本の人々に新たな自信を植え付けた。 その頃、朝鮮では内乱と変革の嵐が吹き荒れていた。改革と近代化を求める勢力と、旧来の体制にしがみつく

        明治のはなし(あきつしま)31

          明治のはなし(あきつしま)27

          明治26年  1893年、清国では、西太后が再び政権を握り、摂政として国の統治を引き継いだ。彼女は圧倒的なカリスマと影響力を持つ存在であり、国内の改革を進める一方、清を取り巻く列強の影響にも敏感だった。西太后は外国勢力に対抗するため、内政を改革し、軍備を整えつつも、どのようにして国を守り抜くか、その計画に腐心していた。 西太后は、改革を望む開明派や伝統を重んじる保守派の意見に耳を傾けながらも、自らの権威を保ちつつ、清国の未来を見据えていた。西太后は、欧米諸国に対抗し、中国

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          明治のはなし(あきつしま)26

          明治25年  1892年、東京の街は人々の活気であふれ、町の至るところに新しい建物や工場が姿を現し始めていた。日本は明治政府の掲げる「富国強兵」と「殖産興業」の政策がようやく実を結び、産業のあらゆる分野が近代化に向けた大きな発展期を迎えていた。 その年、大阪ではひとりの若き起業家、大林芳五郎が小さな土木建築請負業「大林店」を立ち上げた。彼は、「日本の都市を力強く、未来にふさわしいものに作り変えたい」という熱い夢を抱いていた。周囲には工業や商業が急速に発展しており、工場の建

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          明治のはなし(あきつしま)25

          明治24年  1891年の春、横浜港に異例の緊張が走った。清国からの巨大な北洋艦隊が6隻も姿を現し、堂々と碇泊していたのだ。鋼鉄の塊である艦船がゆっくりと港に入る様子を、横浜の住民たちは遠巻きに不安そうに眺めていた。艦隊が日本に圧力をかけていることは誰の目にも明らかで、上層部もこの動きに注意を払っていた。まるで「国力を見せつけろ」と言わんばかりの振る舞いは、日本が直面する国際的な厳しさを象徴していた。 その頃、はるか南方のハワイ島では、女王リリウオカラニが新たな君主として

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          明治のはなし(あきつしま)24

          明治23年 1890年、春の陽気が漂う日本に、欧州から衝撃的な報せがもたらされた。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世がビスマルクを罷免し、新たな時代の幕を開いたのだ。この動きは、ドイツが帝国主義の野心を強め、領土拡張と海外進出に突き進む道を示唆していた。日本の外交官たちは、ドイツが進む道を警戒しつつ、自国が今後どのように世界と向き合うべきか思いを巡らせていた。 10月30日、明治天皇から「教育ニ関スル勅語」が発せられた。この教育勅語は、家族を重んじ、国家への忠誠を尽くすという倫理

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          明治のはなし(あきつしま)23

          明治22年 1889年2月11日、東京の街に祝賀の声が沸き上がった。各地で太鼓や鳴り物が響き渡り、人々が通りを行き交いながら、日本の新たな時代の到来を感じていた。この日、日本の憲法が欽定憲法として発布された。政府要人や知識人たちは「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記されたその条文に目を通し、歴史的な意義を噛み締めていた。この憲法の制定は、明治天皇がしらす、近代国家としての日本がさらに進化し、法治に基づいた統治を誓う決意の表れでもあった。 憲法発布の街の人々 人々の

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          明治のはなし(あきつしま)22

          明治21年 1888年10月、新皇居が落成した。明治天皇が初めて新皇居に足を踏み入れた。石垣を背景に広がる荘厳な佇まいの皇居は、かつての江戸城の面影を残しながらも、完全に新しい日本の象徴として生まれ変わっていた。皇居は「宮城」と改称され、これは単なる宮殿ではなく、近代化を進める新しい日本の姿を示す場でもあった。天皇はこの地に新たな日本の未来を思い描き、東アジアにおける日本の独立した地位の確立を望んでいた。 皇居の完成を祝うかのように、人々は近代日本の象徴を目にするたびに高

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          明治のはなし(あきつしま)21

          明治20年 1887年のこの年、東京に初めて電灯が点り、街が未来への希望に輝いた。日本は急速に文明開化を進めており、人々の生活は近代化の光に包まれた。明かりが灯った夜の銀座通りでは、見慣れない明るさに目を細める人々の顔が交錯し、東京が次第に近代都市の姿を現し始めていた。 その裏で、日本の未来の基盤を築く重要な会議が密かに進行していた。伊藤博文と憲法起草メンバーたちは、神奈川県の金沢の静かな旅館、そして伊藤博文の別荘のある夏島と、会議の場を変えながら慎重に憲法草案を練り上げ

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          明治のはなし(あきつしま)20

          明治19年 「ノルマントン号事件」は、1886年(明治19年)10月24日にイギリスの貨物船「ノルマントン号」が沈没し、日本人乗客が救助されずに全員が命を失った事件です。この出来事は、日本国内で大きな国民的反発を引き起こしました。 「ノルマントン号」は、イギリスの貨物船であり、当時、横浜から神戸に向かう航路で多くの日本人乗客とともに運航されていました。しかし、熊野灘を航行中、船が嵐に巻き込まれ浸水し、沈没が避けられない状況に陥りました。このとき、船長ジェームズ・B・ドレー

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          明治のはなし(あきつしま)19

          明治18年 1885年、日本と清国の関係は一触即発の危機を回避しようと模索していた。長年にわたる朝鮮半島の覇権争いが、二国間の微妙な均衡を崩しつつあった。そんな中、伊藤博文と清国の李鴻章は「天津条約」を結ぶことで合意した。条約では、朝鮮半島での日清両軍の緊張を緩和し、互いに出兵時には事前に通告する義務があることが取り決められた。この合意は東アジアの安定に寄与するはずだったが、実際には隠れた火種が燻り続ける形となった。 同年、伊藤博文はさらに新しい日本を目指し、初代内閣総理

          明治のはなし(あきつしま)19

          明治のはなし(あきつしま)18

          1884年(明治17年) 明治17年、日本はかつてない大改革の真っ只中にあった。内閣制度、市町村制、府県制、郡制といった制度が次々と整えられ、明治政府は国を近代的な官僚制度に基づく運営へと変えていった。これにより、天皇を中心とする統治体系がより確固たるものとなり、皇室財産の設定も進み、国の財政も一層の安定を見せた。 さらに、銀本位制の導入とともに日本銀行券が初めて発行され、国内経済が近代的な貨幣経済へと移行し始めた。 その一方で、多くの日本人が新しい生活を求め、海を渡っ

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          明治のはなし(あきつしま)17

          1883年(明治16年) 冬の寒気が深まる明治16年の1月、福沢諭吉はその志のひとつを実現しようとしていた。彼は日本の進むべき道を明確に見据え、近隣の朝鮮の開化を強く望んでいた。朝鮮が新たな時代に向かって一歩を踏み出すには、民衆に情報が届き、知識が広まることが不可欠だと考えていたのだ。 彼は言葉の壁を感じつつも、その先にある広がりを見通していた。朝鮮の人々に直接語りかけ、彼らの暮らしと未来に変革を起こすためには、現地の言語での新聞発行が必要だと確信していた。だが、漢字ばか

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          明治のはなし(あきつしま)16

          1882年(明治15年) 1月4日、厳しい冬の朝、明治天皇は軍人に対し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素を軍人が守るべきの五つの徳目とし、政治への関与を禁じる「軍人勅諭」を発した。近代化を目指す新政府において、軍部が一部政治的な動きを見せ始めており、これを抑えるための布告だった。この決断は政府内で慎重に議論されてきたものであり、民政の強化と国家の秩序を保つための一手だった。しかし、一部の軍人の間には不満もくすぶっており、政府は軍部の動向をさらに警戒せざるを得なかった。 そんな

          明治のはなし(あきつしま)16