明治のはなし(あきつしま)19
明治18年
1885年、日本と清国の関係は一触即発の危機を回避しようと模索していた。長年にわたる朝鮮半島の覇権争いが、二国間の微妙な均衡を崩しつつあった。そんな中、伊藤博文と清国の李鴻章は「天津条約」を結ぶことで合意した。条約では、朝鮮半島での日清両軍の緊張を緩和し、互いに出兵時には事前に通告する義務があることが取り決められた。この合意は東アジアの安定に寄与するはずだったが、実際には隠れた火種が燻り続ける形となった。
同年、伊藤博文はさらに新しい日本を目指し、初代内閣総理大臣に就任した。これは、内閣制度が正式に導入され、伊藤が井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法草案を作成する一歩となった。この草案は日本を近代国家としての基礎を固めるものであり、国民の自由と権利を明文化し、中央政府を強化するものであった。日本が西洋列強に肩を並べる近代国家となるための改革は、こうして確かな一歩を踏み出した。
その頃、日本では琉球諸島の一環として尖閣諸島を調査する動きも進んでいた。この小さな島々は、日本の海上交通の安全に重要な地点として注目され、官僚たちによって詳細に調べられた。国の発展において、どんな小さな島でも重要な役割を担い得るという考えが国民の中で浸透し始めていた。
また、日本から遠く離れたビルマでは、英国による侵略が進んでいた。ビルマ国王は英国との戦いに敗れ、王妃とともに平民に降格された。彼らの王権は失われ、ビルマは英国の植民地支配下に入ることとなった。列強の進出はアジア各地で力を増しており、アジアの多くの国々が独立と主権の危機に直面していた。
一方、清国もまた南の国境で争いに巻き込まれていた。長年宗主権を有していたベトナムがフランスの手に落ちたことで、天津条約によって清国はその保護権を正式に放棄せざるを得なかった。アジアの国々が列強の影響下に入りつつある中、清国は徐々にその権力を失いつつあった。
その年、天津に幽閉されていた朝鮮の大院君も、ついに帰国を果たすことが許された。朝鮮王・高宗が求めたものであったが、彼の帰還は再び朝鮮の権力構造に波紋を呼び起こし、反乱や対立の火種となる可能性が高かった。大院君は彼の権力基盤を強化するために再び動き出し、袁世凱が彼を支援したことで朝鮮国内の緊張は一層増していった。