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明治のはなし(あきつしま)17

1883年(明治16年)

冬の寒気が深まる明治16年の1月、福沢諭吉はその志のひとつを実現しようとしていた。彼は日本の進むべき道を明確に見据え、近隣の朝鮮の開化を強く望んでいた。朝鮮が新たな時代に向かって一歩を踏み出すには、民衆に情報が届き、知識が広まることが不可欠だと考えていたのだ。

彼は言葉の壁を感じつつも、その先にある広がりを見通していた。朝鮮の人々に直接語りかけ、彼らの暮らしと未来に変革を起こすためには、現地の言語での新聞発行が必要だと確信していた。だが、漢字ばかりの難解な文章では、読み書きの訓練を受けていない人々には到底伝わらない。そこで、諭吉は漢字とハングルを併用した混合文の使用を決意し、朝鮮の民衆に向けて発信する準備を始めた。

しかし、当時の朝鮮にはハングルを使用した印刷技術がなかったため、彼はやむなく自らの資金でハングルの活字を鋳造した。その決断は一部の人々から異例だと驚かれたが、諭吉の心は揺るがなかった。明治の開化を導いた日本が隣国の未来に貢献するという新たな使命が、彼を突き動かしていた。

そして遂に、朝鮮の都・漢城(現在のソウル)で、朝鮮初の新聞「漢城旬報」が誕生した。この新聞には、諭吉の思い描く開化のビジョンが詰まっていた。文章は漢字とハングルを組み合わせ、文字を読める者も、そうでない者も、すべての朝鮮人に分かりやすい形で情報が届けられるよう配慮されていた。政治、経済、教育、衛生などの現代知識が満載されたその紙面は、朝鮮の未来を担う若い世代に驚きと刺激をもたらし、やがて広範な層に受け入れられるようになった。

「漢城旬報」は福沢諭吉の望み通り、朝鮮の人々に「開化」という光を届け始めた。紙面を通じて人々は、日本や世界の出来事を知り、新しい知識に目を開かされていった。小さな新聞から始まったこの運動は、朝鮮において一筋の光となり、諭吉の思いが込められた「言葉」が国境を越えて朝鮮の土壌に根を張り始めたのである。

この新聞が発信する言葉は、近代化と独立への道を目指す朝鮮の人々にとって希望となり、日本と朝鮮の関係にも新たな光を投げかけるものとなった。福沢諭吉は、遠く異国の地で発行された新聞を見つめ、自らの使命がまた一つ果たされたことを実感しながら、さらなる未来を思い描いていた。

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