見出し画像

明治のはなし(あきつしま)28

明治27年 

1894年の夏、日本では大きな国際的成果が達成されようとしていた。日本の外務大臣である陸奥宗光は、長年の懸案だった日英通商航海条約を見事に締結し、領事裁判権の撤廃に成功する。これは日本が欧米と対等な国家として国際社会に認められる一歩であり、国内には歓喜が広がっていた。陸奥は「これからは日本も堂々と国際舞台で活躍する」と語り、日本の人々に新たな自信を植え付けた。

その頃、朝鮮では内乱と変革の嵐が吹き荒れていた。改革と近代化を求める勢力と、旧来の体制にしがみつく保守派の対立は次第に激化していった。李氏朝鮮は、公文書に国文であるハングルを使用することを法令で定め、さらに何百年も続いてきた科挙制度の廃止を決定するなど、急速に変革を進めていた。

しかし、その改革はすべての人々にとって平等な恩恵をもたらすものではなかった。全羅道を拠点とする農民たちは、過酷な税や貧しい生活からの解放を求めて蜂起し、東学党と呼ばれる農民軍を組織して、全羅道の中心部を占拠する東学党の乱が起きる。大院君はこれを見逃さず、内部の対立に乗じて影響力を強めるべく景福宮を占拠し、金弘集を首班とする軍国機務処を設置した。この一連の改革は甲午改革(~1896年)として後に知られることになるが、当時の朝鮮では混乱が増し、人々の生活は一層不安定となっていた。

その一方で、朝鮮の改革者改革者である金玉均は、命の危険を感じて日本へ亡命していた。彼は自身が思い描いた理想の国を目指して苦しい旅路に立ち、今や日本でその夢を語りながら新しい活動を模索していた。

朝鮮を巡る日本と清国の緊張は、ついに頂点に達し、大院君は日本に助力を求め、牙山に駐屯していた清軍の排除を要請する。
7月25日、遂に日清戦争が勃発した(明治27年7月25日から明治28年4月17日)。

【日清戦争は1894年に始まり、戦争の序盤から日本は圧倒的な軍事力を示した。牙山で清国の軍隊が敗北を喫した後、清国は主力を再編成し、朝鮮半島の要所である平壌での日本軍の進軍を食い止めようとした。しかし、日本軍の戦力と士気の高さは清国の予想を超え、清国の奉天旅団は日本軍の前に防衛線を維持できず、またもや敗北を重ねることとなりました。

9月には黄海を舞台に海戦が勃発した。帝国海軍はかねてからの準備と戦術の強化により、北洋艦隊に対して圧倒的な火力を持って攻撃を仕掛け、北洋艦隊の多くの艦船を撃沈させ、残りの艦船は山東半島の威海衛へと逃げ込んだ。海上での日本の勝利は清国側の士気を大いに損なわせ、清国海軍の後退と防衛の決意を打ち砕いた。

10月には、陸上でも日本軍は快進撃を続け、清国の重要な軍港である旅順を占領した。日本軍はさらに陸と海から威海衛に対して包囲攻撃を開始し、ここに逃げ延びた清国の艦隊を確実に壊滅させるため、徹底した攻勢を行った。威海衛の攻防では、清国海軍の旗艦「定遠」をはじめとする主要艦が次々と撃沈され、撃沈を免れた一部の戦艦も最終的には日本軍によって鹵獲(ろかく)された。この結果、清国の北洋艦隊は事実上壊滅し、清国の海軍戦力は消滅した。

明治28年(1895年)2月、清国海軍の提督であった丁汝昌は抵抗を続ける手段が尽き、ついに降伏を決断した。この時点で、日清戦争の陸戦・海戦ともに日本の圧勝が確実なものとなり、戦争開始から9ヶ月も経たないうちに戦局は日本の勝利へと大きく傾いた。

翌1895年3月になると、日本軍は清国の首都北京に迫りつつあり、これにより清国は戦争を継続することが不可能であると判断した。清国は降伏と講和を申し出、日本と清の間で和平交渉が始まった。戦争の終結に向けたこの和平交渉の結果、日清戦争は日本の決定的な勝利として終わりを迎え、日本は戦後の講和条約で大きな外交的、領土的利益を得ることとなった。】

一方、時代のうねりは中国本土にも広がっていた。中国の革命家、孫文は清朝打倒を目指して動き始めており、密かに改革者たちと結びついて、清国の新たな未来を描こうとしていた。彼の心には、新しい時代のために尽力するという確固たる意志が芽生えていた。

そして同じ年、ロシアではニコライ二世が即位し、東アジアへの野心を強めつつあった。日本、清国、朝鮮、ロシアが複雑に絡み合い、歴史の歯車が一斉に動き出した年であり、東アジア全体にとって、変革と対立の時代が始まろうとしていた。


いいなと思ったら応援しよう!