明治のはなし(あきつしま)21
明治20年
1887年のこの年、東京に初めて電灯が点り、街が未来への希望に輝いた。日本は急速に文明開化を進めており、人々の生活は近代化の光に包まれた。明かりが灯った夜の銀座通りでは、見慣れない明るさに目を細める人々の顔が交錯し、東京が次第に近代都市の姿を現し始めていた。
その裏で、日本の未来の基盤を築く重要な会議が密かに進行していた。伊藤博文と憲法起草メンバーたちは、神奈川県の金沢の静かな旅館、そして伊藤博文の別荘のある夏島と、会議の場を変えながら慎重に憲法草案を練り上げていた。伊藤は法治国家としての日本を確立し、列強と対等に向き合える国家を築くため、この作業に心血を注いでいた。彼らは、未来の日本が歩むべき道筋を一文一文に込め、各地で密かに議論を重ね、草案を仕上げる決意を固めていった。
日本国内では社会秩序の強化を図るために「保安条例」が公布された。この法令により、反政府運動を行う団体や個人に対して厳しい制約が課されることとなった。急速に近代化を進める日本の中で、人々の自由な声を統制する必要性が高まっていた。伊藤博文ら政府要人たちは、憲法制定に向けた動きに反発する勢力を抑えつつ、国内の安定を図ろうとしていた。
この年、明治天皇からオスマン帝国(トルコの前身)へ国交の意向が示され、オスマン帝国は親善を目的として、軍艦エルトゥールル号を派遣することを決定した。エルトゥールル号はトルコで最大級の木造帆船で、約500人の乗組員を乗せ、1890年6月にイスタンブールを出発し、三か月後に横浜に到着。横浜では盛大な歓迎が行われ、トルコ使節団は日本の要人たちと交流し、無事に親善の使命を果たした。
日本を出発して帰国の途についたエルトゥールル号だったが、帰路の途中で台風に遭遇し、1890年9月16日夜、和歌山県串本町樫野埼沖で座礁・沈没した。この事故により、艦長アリ・オスマン・ベイや乗組員を含む500名以上が犠牲となり、生存者はわずか69名。
遭難後、和歌山の地元住民は危険を顧みず救助活動に尽力し、生存者を助けた。生存者は怪我や衰弱で動けない状況にあり、串本の人々は、医療、食料の提供などで生存者を支援し、彼らの回復に努めた。日本政府も、全ての生存者が無事にトルコへ帰国できるよう、軍艦「金剛」と「比叡」によって彼らをトルコまで送り届けた。
この出来事は、両国の間に強い絆をもたらし、日本とトルコは友情を深めるきっかけとなった。串本町にはエルトゥールル号殉難記念碑が建てられ、2015年には「海難1890」という映画も製作され、両国の友好が描かれている。現在も、エルトゥールル号遭難事件を通して生まれた両国の絆は大切にされている。
その一方で、12月には東アジアで新たな動きがあった。ポルトガルが清からマカオの統治権を獲得したのである。マカオは長らく中国の土地であったが、この譲渡によってポルトガルの影響下に置かれることになった。欧州列強が次々とアジアへ勢力を拡大していく中で、日本もその波に飲まれることのない強国となるための準備を進めていた。