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明治のはなし(あきつしま)22
明治21年
1888年10月、新皇居が落成した。明治天皇が初めて新皇居に足を踏み入れた。石垣を背景に広がる荘厳な佇まいの皇居は、かつての江戸城の面影を残しながらも、完全に新しい日本の象徴として生まれ変わっていた。皇居は「宮城」と改称され、これは単なる宮殿ではなく、近代化を進める新しい日本の姿を示す場でもあった。天皇はこの地に新たな日本の未来を思い描き、東アジアにおける日本の独立した地位の確立を望んでいた。
皇居の完成を祝うかのように、人々は近代日本の象徴を目にするたびに高揚を感じた。宮城の姿は、過去の封建時代の残滓から抜け出し、新たな道を歩む決意を示しているように映った。時折外から眺める人々たちは、この場所が日本全体の象徴と成ることに希望を感じ、そこに進むべき道を見ていた。
同じ年、東アジアの情勢もまた、大きな変化を迎えていた。ロシアと朝鮮の間で「露韓陸路通商条約」が締結されたのだ。この条約によって、ロシアが朝鮮にさらに影響力を強めようとしていることが明確となり、日本にとっても不穏な空気が流れていた。ロシアは着実に東アジアへの進出を進めており、日本にとって脅威となる可能性が高まっていた。
日本政府の高官たちは、ロシアの南下政策が今後日本に与える影響を深く考え、慎重にその動向を見守りながら、日本の防衛と外交の戦略を練ることの重要性を認識していた。とりわけ、朝鮮半島がロシアや中国の影響下に置かれる可能性に対し、日本は独自の対策を急ぐ必要があった。彼らは、周辺国の動向に目を光らせつつ、日本の独立と平和を守るために奮闘する決意を固めていった。