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明治のはなし(あきつしま)16

1882年(明治15年)

1月4日、厳しい冬の朝、明治天皇は軍人に対し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素を軍人が守るべきの五つの徳目とし、政治への関与を禁じる「軍人勅諭」を発した。近代化を目指す新政府において、軍部が一部政治的な動きを見せ始めており、これを抑えるための布告だった。この決断は政府内で慎重に議論されてきたものであり、民政の強化と国家の秩序を保つための一手だった。しかし、一部の軍人の間には不満もくすぶっており、政府は軍部の動向をさらに警戒せざるを得なかった。

そんな状況の中で、明治政府の重鎮・伊藤博文は、新しい憲法を学ぶためヨーロッパへの旅に出発した。列強の政治体制を熟知するためには直接の視察が必要だと感じていた伊藤は、特にドイツとイギリスの憲法に注目していた。彼は、異国の議会や憲法のあり方をじっくり学び、日本の未来のための礎を築くことを誓い、海を渡った。

一方、日本国内では経済の改革も進められていた。この年、日本銀行が設立され、紙幣の管理と発行を一手に担うこととなった。新しい経済の礎を築くべく、政府は銀行の設立を通じて財政の安定を図った。この試みは全国の商人や市民たちに安心を与え、日本の経済は着実に成長を遂げようとしていた。

その頃、日本の隣国・朝鮮でも、大きな変化が訪れていた。朝鮮はアメリカとの間で「朝米修好通商条約」を調印し、開国を進めていたが、その内政は依然として不安定であった。王室の実権を握る閔妃の勢力が国を支配していたが、改革に反発する大院君は、それに対して不満を募らせていた。

ついに夏のある日、朝鮮の兵士たちは、大院君の煽動を受け、閔妃政権への反乱を起こした。これが「壬午事変」として歴史に残る大規模な動乱であり、同時に日本人が標的となった事件でもあった。日本の公使館が襲撃され、数名の日本人が犠牲となった。この知らせが東京に届くと、政府内には緊張が走り、直ちに対応策を協議するための会議が開かれた。外交官たちや軍部は、それまでとは異なる強い姿勢を朝鮮に対して示す必要があると主張し、やがて新たな対応策が講じられることとなった。


軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭,軍人訓誡ノ勅諭)

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅閒しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剰外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大將軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯㫖を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の恵に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとにゆ由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡生を我國に稟くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程技藝に熟し學術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

一軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで其閒に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新𦾔あれは新任の者は𦾔任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より𦾔きものに對しては総へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠹毒たるのみかは國家の為にもゆるし難き罪人なるへし

一軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやはり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにてそ

一軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己が分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を辨へ理非を考へ其言は所詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき

一軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ輕薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陥りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起こりては彼の傳染病の如く蔓延し士風も平氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶も其惡習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等間にな思ひそ

右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さむ日本國の蒼生擧りて之を悦ひなむ朕一人の懌のみならんや

明治十五年一月四日

御名

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