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すずめの戸締まりに感じた”国民的”エンタメ作品の限界

まず大前提として、とても良い作品だと思います。
私は好きな映画でした。

日本の民俗文化や伝承に根ざした世界観も。
現代的な感性にアップデートされた恋愛観も。
新海誠らしい色彩の美しい空も山も街並みも。
主人公が幼少期からの心の傷を癒す物語も。

上映直前には主にシネコンの劇場をほぼ独占するスケジュールに一部から批判も起こりましたが、蓋を開けてみれば販売率(=座席混雑度)は他のどの映画よりも高く、劇場側のマーケティングが優れていたことを証明する結果になりました。

まあ日本では1年に1回くらいしか映画館に行かない人達が圧倒的な多数派マジョリティなわけで。そういう人達の重い腰をどうやって上げさせるかが配給会社と劇場のミッションなのです。そういう人達は「劇場でこんなに沢山やってるならきっと面白いに違いない」と考えやすいし、実際それで無限列車もFILM REDも劇場占拠キャンペーンで大成功してきたわけで。

1)404.3億円 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編(2020)
2)316.8億円 千と千尋の神隠し(2001)
3)250.3億円 君の名は。(2016)
4)201.8億円 もののけ姫(1997)
5)196.0億円 ハウルの動く城(2004)
6)183.9億円 ONE PIECE FILM RED(2022)
7)173.5億円 踊る大捜査線 THE MOVIE 2(2003)
8)155.0億円 崖の上のポニョ(2008)
9)141.9億円 天気の子(2019)
10)138.0億円 劇場版 呪術廻戦0(2021)

*ちなみに全部、東宝が配給している作品です。やば。

そして『すずめの戸締まり』はその期待にちゃんと答える”間違いない作品”でした。自信を持って万人にお勧めできます。(*地震関連の描写が心理的にエグいので、不安な方はそれなりに覚悟したり、先に観覧された方に内容を詳しく聞いたりしてから、判断してくださいね)

しかし、その上で、何かしら”大事なもの”が欠けているような気が私はしてしまったんです。

それは何故なのか。

ここから先は映画の結末に言及しますので、ご留意ください。

▼震災を国民的エンタメに昇華できるのか:

欠落を感じたのは、もちろん震災関連の描写です。

「すずめの戸締まり」ご鑑賞予定の皆様へ
映画「すずめの戸締まり」が完成致しました。ご鑑賞予定の皆様、楽しみにして頂ければ幸いです。
本作には、地震描写及び、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。警報音は実際のものとは異なりますが、ご鑑賞にあたりましては、予めご了承いただきます様、お願い申し上げます。
令和4年10月22日「すずめの戸締まり」製作委員会

映画「すずめの戸締まり」公式ツイッターより

公式がしつこく注意喚起するなど、本作では震災に関する直接的な描写や緊急地震速報などショッキングなシーンが含まれており、それを称賛する声も問題視する声も見受けられます。

しかし、私はそこまでリアリティがあるとは感じられませんでした。

むしろ、かなり重要なものが欠落しているようにさえ思えました。

一つには、私自身がこの災害を東北地方で経験していない、ということがあるのかもしれません。当事者意識の欠如。そんなこと言い出すと辺野古問題で炎上していた例のサヨク記者みたいで嫌なんですけど。(笑)

でも事実として、当時、私は東京に居ました。ニュース映像でしか現場を見たことがない、そんな私には東日本大震災の重要な部分が理解できないのかもしれません。当事者であれば汲み取れる、隠喩的な表現に気づいてないかもしれません。物語に”感情移入する”という視点で見るならば、それは考慮すべきことでしょう。

しかし、調べてみると新海誠監督も当時は東京に居たんですよね。あれ、じゃあ話が変わってきますよね。震災をテーマにしたもっとシリアスな作品は私も幾つか見たことがあるので、知識や理解が「まったくゼロ」というわけではありません。戦争を未経験でも広島や長崎に想いを馳せることができるように、東北の震災被害にもある程度は理解や共感はできる筈です。

では、なぜ戸締まりからはリアリティを感じられなかったのか。

批判を受けるかもしれませんが、言葉に起こして整理してみます。

●鈴芽の絵日記

ようやく目的地に辿り着いた鈴芽が掘り起こした宝物ボックスから取り出した絵日記。物語のクライマックスで「待ってました」とばかりに見せつけられる3.11の”真っ黒な記録”。

うーん…言いたいことは分かるんだけどさ。

実際に2011年の東北で、真っ黒な絵ばかり描くようになってしまった少女のエピソード(おそらく実話)もいくつか聞いたことありますし。それを本作でも拝借したのだと思いますが。

でも、、、ごめん、わざとらしいのよ。映画としては。

そこまでの過程が。

どうしても、現実的に(物理的に)そんなことが可能だったのか考えてしまって。

絵日記では3月11日と、そこから一週間くらい黒塗りが続き、もしかしたら一日に数ページを勢いよく塗り潰したのかもしれません(実際に常世の絵日記は見開き2ページに描かれていました)が、とにかく鈴芽が常世に迷い込んだ日まで続くということは、被災した状況下でずっと描き続けていたことになります。

ここで、被災前の日記から地続きだったので、崩れた家から日記帳(とクレヨン)を運び出したということですよね。

日記帳からは濡れた痕跡は見られなかったので、おそらく家は津波に飲まれたとかではなくて、シンプルに強い揺れが原因で倒壊したのだと思われます。

そして環(たまき)叔母さんと宮崎県に経つ日に、崩れた家の跡地に”すずめのだいじ”を缶箱に仕舞って埋めてきた、ということですよね。

そんなこと、しますかね?

3月の東北地方はまだまだ寒く、家で寝られなくなってしまった人達は学校の体育館などの避難所で毛布にくるまって雑魚寝するような状態でした。そんな時勢に日記帳とクレヨンを大切に持ち歩く、なんてできるのでしょうか。

●環が鈴芽に埋めるよう指示したのか

当時の環の気持ちになって考えてみるのですが、宮崎弁で話すことから彼女はかなり若い頃から宮崎県に住んでいたと考えられます(女性は若い頃に覚えた方言が抜けない人が多い)ので、震災が起きてすぐに東北地方までやって来て、そこで幼い鈴芽を保護したわけです。

それで暫くは鈴芽の母を捜索していたと思うのですが、おそらくそれが鈴芽の絵日記が黒塗りだった時期で、吹雪の中で常世から戻った鈴芽を見つけるなり「もう私の子になりんさい」と言っていたので、その時点で環は捜索を止める決心もしていたのでしょう。そして、この土地に留まっていては鈴芽が悲しみを忘れられないので、すぐに移住を決めます。劇中でも「12年ぶりの里帰り」だと言っていましたから、東北に長居はしなかったはずです。

しかし、一般に行方不明者の捜索ってどのくらいの期間続けるものなんでしょうか。3.11の場合はどうだったんでしょうか。鈴芽の態度から予想するに、鈴芽は母の死体を見たわけではないと思うんですよね。常世に入った時点でまだ探してましたから。警察や自衛隊が捜索を打ち切ったのはいつ頃だったのかしら。環に保護された時は雪が降っていましたけど、3月11日より後だと言うことになりますが、4月まの短い期間の出来事ということになりますか。それも当時の捜索状況と合致するのかしら。

鈴芽は宮崎弁を話さないので、最初の移住は関東エリアだったと思われます。たぶん当時の環は東京で一人暮らしをしていたのでしょう。それで仕事や婚活など頑張っていたが、ある程度歳を取って、鈴芽を養っていく必要もあるので物価の高い東京は離れて、多分このまま生涯独身を貫く覚悟も決めて、故郷である宮崎の漁協あたりに転職したのだと思われます。

そもそも震災直後に鈴芽を祖父母に預ける選択肢もあったはずなのに、当時は若い独身女性だった環が無理して養育してきた理由も謎のままです。芹沢じゃないですけど、闇が深い家族ですね。

で、改めて、鈴芽が震災前後の出来事を記録していた日記帳を、東北から離れる時に、元の家の場所に埋めますかね?

てゆうか、なぜ埋めたんだ?

母が帰って来たときに見つけてもらうためなら、地中深すぎる気がします。

弔うために埋めるなら、すずめのだいじというタイトルは不釣り合いだと思います。(もともと埋める前から書いてあって、それを母親の墓として代わりに埋めた?)

でも幼い鈴芽が「お母さんの思い出と一緒に埋める」という行動に納得するのかしら。どうやって言い聞かせたのかしら。

埋める場所の権利問題もあります。

まず賃貸ならそんなことしませんよね。

ということは、持ち家でしょう。

震災が起きた時点で鈴芽は母子家庭だったので、まとまったお金があったことから逆算して、おそらく父親は早くに死亡して、その生命保険などを使ったと考えるのが妥当でしょう。(*資産家と離婚して慰謝料を取ったとかではないと思いたい)

鈴芽の家があった付近のエリア一帯はいまだに更地で草が生い茂って放置されていましたけど、あれから12年が経過して、立派な堤防まで建設されたのに、まだここまで再開発が進まないものなのでしょうか。(これは観賞後に調べて分かったのですが人が戻らない地域はまだ結構あるようです)

などなど考え始めるとディティールの部分で色々と引っかかってしまって。

こんなことを鑑賞時は頭フル回転で考えてまして。

今もこうして文章に起こしながら考えてるんですけど。

あまりにご都合主義的な舞台設計に脳内クエスチョンが止まりません。

だから、鈴芽が12年前の真っ黒な絵日記を見る描写自体は心にガツンとくるのですが、それは劇中の鈴芽に対して感情移入したんじゃなくて、実際に震災の被害に遭われた方々に想いを馳せて涙が出てくるんですよね。映画の物語とは完全に切り離して感動してる自分がいました。

それってアリなんでしょうか。

それが新海誠監督の狙いなのかもしれませんけど。ただ私は映画の内容自体には白けてしまう部分は正直ありましたよね。

●鈴芽と母親以外の人物

震災のシーンでは鈴芽しか描かれません。

本当は被災当時に様々な人達が関わった筈です。家族とはぐれた4歳の女児(鈴芽)に…食料を与える人、寝床を与える人、体を拭いてくれる人、心配して声をかける人、母親は何処に行ったのか聞いてくれる人、保育園の先生、他の震災孤児、怪我人、警察・消防・自衛隊、ボランティア…そういう他人が描画からすべて排除されています。

彼らは何処に行ったのか。

このように自分自身と、ごく近い人(恋人や家族)だけしか登場しないのが、いわゆるセカイ系らしくて、嗚呼いつもの新海誠節だな、というか「話の規模が大きくなると目立つ宿命的な矛盾点」でもあるよな、とも思うわけですが、これによって映画のファンタジー色が強くなって、リアリズムがどんどん薄く透明に近づいていきます。

周囲の人々や環境は『君の名は。』や『天気の子』では、まだ描かれていたんですよね。隕石落下の災害から避難する住民や、お天気サービスを利用するお客さんとして。そういう外界を『戸締まり』では完全に閉ざしているのが、少し気になりました。

まあ、4歳児から見えてる世界ってあんなものかもしれませんけどね。

●体力モンスター鈴芽

震災の描写に直接は関係しないのですが、間接的に影響しているのが鈴芽の無尽蔵の体力です。

そもそも無料公開されてる冒頭12分の段階でおかしいんですよ。あんな山奥から麓の漁師町まで毎日自転車で通っているだけでアスリート級の心肺機能に育ちそうですが、この日もすれ違ったイケメンのお兄さんが気になって、そのまま踵を返して再び坂の上まで汗もほとんどかかずに登ってしまう時点でバケモノです。(笑)

さらには、愛媛県では遥か彼方の山奥に噴き出したミミズを見て迷わず坂道ダッシュを始めます。途中でバイクで運んでもらうことはありましたが、廃墟の入り口から奥の学校までは舗装されていない山道を再び走って、着くや否や力一杯に後ろ戸を閉じる作業に参加します。

いや、それ以前にこの日は、前日から鈴芽は山奥の自宅から港までダイジンと椅子を走って追いかけて、そのままフェリーに飛び乗り、夏とはいえ夜風が強く吹く、硬く冷たいフェリーの甲板の上で毛布一枚で朝まで過ごし、そのまま愛媛の港にフェリーで着いてからずっと田舎の車道を一日中歩いて来たんだぜ。それも、ほとんど何も食べずに。

無理やろ!(笑)

さらにさらに、兵庫では、下町のスナックから、やはり山奥の廃墟の遊園地まで全力疾走です。上り坂もなんのその。数キロ走ってきても息も切らさず、汗もほとんどかかず。(笑)

もう、この時点でおかしくて、内心笑いが止まりませんでした。

スマホで地図アプリを開いて「ここからここに行って次は〜」と妄想して遊んでるのが、そのまま映画になったような荒唐無稽さです。そこには身体性がほとんど感じられません。

まだ終わりません。さらに東京では。お茶の水周辺の自動車が行き交う交通量の多い車道に飛び出しても擦り傷ひとつ負わず、高さ20メートルはあろうかという聖橋から飛び降り、どさくさで靴を失くしても構わず靴下だけで街を歩き続け、こんな不審な格好なのに警察の職務質問も掻い潜り、流血してる足をシャワーで洗い流したら、看護師だった母親譲り(当時4歳)の応急処置で手当てして、二回りは大きそうで歩きにくそうな男物のブーツをぎゅっと縛るだけで無理に履いて。

…って、いやいやいや!

それ、もう人間の出来ることじゃないです。(笑)

補足)裏事情ですが、靴を借りたことについては鈴芽のビジュアルをちょっと風変わりなファッション(女子高生の制服に無骨なブーツを合わせたい)にするための少し強引な技だったのかなと思います。一応、物語的にも「椅子を失くした代わりに草太を感じられる物を身につけたかった」という動機付けは出来るのですが。最後も草太の上着を着たまま帰っちゃいますし、鈴芽は寂しがり屋で可愛いですね。(笑)

実はこの兆候は昔からあって、『君の名は。』では瀧が超軽装備で山を登ったり、三葉が山頂から村まで駆け降りたり、そして二人は東京で巡り会った直後にそれぞれ新宿駅と千駄ヶ谷駅から逆方向の四ツ谷方面まで走って戻るという暴挙に出ていたり、体力オバケを発揮していました。

図)君の名はラストの二人の動線:三葉が乗る各停が新宿駅に着くまで大人しく待ってれば良かっただけなのに、意味不明すぎる二人の暴走。(笑)

こういう体力バカ設定は、新海誠監督作品の過去作『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』(いずれも東宝の河村元気プロデューサーと組む前)では見られなかったので、まあ現在の東宝メジャー作品としての【映えるロケ地優先】になってからの特徴になるのだと思いますが、土地勘を働かせて見たり、背景の描画がリアルになればなるほど、不自然さが目立ってきます。

『君の名は。』では「夢の中」というファンタジーな設定もあって勢いで誤魔化しきれた感じもしたのですが、戸締まりでは一応「現実の日本」が舞台になっているだけに不自然さが際立ちます。

こうしたぶっ飛び具合に、物語の前半から、私は半ば呆れながら観ている節があったので、もうラストの東北地方の描写も、一種の派手に脚色された演出のように見えてしまうという弊害があったと思います。

●共感要素に欠けた常世

綺麗なんだけど、常世の世界観がよく分かりませんでした。

悪い意味で、無国籍・無宗教です。

それまでずっと神道なり、縄文文化なり、日本的特徴を持つ形質を前面に出してきたのですが、常世だけは途端にルーツが曖昧模糊になりました。

新海誠監督ではお馴染みの綺麗な夜空、と言えばそれまでなんですが。

あのパープルにきらきら光る色彩は、そのまま受け入れても良いのかしら。

もっと日本文化に影響を与えそうな色や形じゃないとおかしいと思うんですよねえ。

結果的に、東京に現れたミミズの縄文デザインが浮いてしまっています。

この指摘については私の不勉強が原因かもしれないので、あれで正解だったという根拠をお持ちの方が居りましたら教示いただけると幸いです。

▼とはいえ、これが限界ではないか:

ここまで散々問題点を挙げてきました。

しかし、一方で新海誠作品は東宝が老若男女を広く呼び込む”国民的”アニメであり、パブリックでポピュラーなコンテンツです。あまり攻めすぎた演出はできません。

東日本大震災という、10年経ったとはいえ、主に東北地方に住んでいた方々にとっては、まだまだリアルで現在進行形のイシューを取り扱うからには、あまり直接的な表現はするべきではありません。それこそ福島や気仙沼の実際の風景をトレースして描いてしまったら、生々しくて見るのが辛くなってしまう人が多く出てくるでしょう。

そこで、この映画の最終局面では、思い切りアニメっぽくご都合主義で物語を展開したり、家の上に座礁した船など記号化されたオブジェに留めて、急にデザインが無国籍で地元日本を感じさせないものに変えられたのかな、とも思います。

いつかこのクオリティでもう一歩踏み込んだ作品も観てみたいです。まあ、でも世間が許容できるようになるとか、その時に割ける予算などに鑑みれば、あと10年くらい経たないと作れないかなあ。

了。

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まいるず
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