それからいったん病院を通りすぎて、私は、ペットサロンにピピをあずけました。 ピピは、ここで体を洗ってもらうのです。 えっ・・・? ピピの表情がいっきょに曇ります。それでも しぶしぶ、しぶしぶ・・・ と、いやいやながらもペットサロンに入ったピピを置いて、わたしと母は病院へ向かいました。 伯母が入院している病院を、わたしは楽しく闊歩(かっぽ)しました。 伯母の手術はうまくいき、命に別状はなく、そして、わたしはピピの輝きをあびていたのです。 たのしい、おもしろい、ドタバタでかわ
第二十一章 7月・おーピピ、ピピおー 七月一日(ついたち)のことです。 その日は、雨の土曜日でした。 わたしの伯母、つまり父のお姉さんが手術をうけて、入院しているのをお見舞いに行きました。 わたしの車の、海色のちいさなオプティの、運転席にわたしが、助手席に母が、うしろのソファにピピが、場所をとります。 とちゅうで花屋に寄り、やわらかいピンク色のバラを七本買って、濃い緑のリボンでむすびました。 そのあいだ、ピピは、車の中で母と一緒に待っていました。 わたしが花屋からもど
夏は、もうすぐです。 また、赤い手をしたカニが、家の敷地に、道に、あらわれていました。 でも、今年のピピは、もう、カニをいじめません。 「かまっちゃだめ」 わたしが静かにそう言って、通りすぎます。 すると、ピピも同じように静かな顔で、手出しせずに進んでいくのです。 ピピは、顔だけ大人びたちいさな悪魔のようだったのに、ほんとうに、おとなになってきました。 わたしの言葉が、わかるようになってきました。 これから、ピピは、いったいどんなにいろいろなことが、わかるようになるので
わたしはそっと段を降りると、寝箱のまえにしゃがみこみ、ささやきました。 「ちょんぷ、ちー」 いつものように、おかしな、へんな呼び方です。 でも、ピピは、それがじぶんのことだと、少なくともじぶんに話しかけられていることだと、知っています。 ピピの呼吸は、少し甘えるように変化して、そのまま、安心して眠りつづけています。 (・・ほう・・・) わたしの中に、やすらぎが広がりました。 もし・・・、 もしピピがまた病気になっても、わたしはこんなふうにささやいて、ピピを安心させられ
そんな、ある晩のことです。 私が勝手口のドアをあけると、左ななめ前方の寝箱の中の、くちゃくちゃにしたピンクの毛布のうずまきの上で、ピピは すっかり!! という開けっぴろげな様子で、おなかをだして眠っていました。 のびのびとひっくりかえった、そのからだの先端で、白いあごが つん・・ と尖って、ランプのひかりに輝いています。 その、とてもほそい三角形の、ちいさなあご・・・ ピピの口は頑丈で、なんでもしまいこんでしまう馬鹿でかいカバン口で、くわえたらもう放さない貪欲な(どん
夜になると、ピピの寝箱がある通路の窓はぴったりと閉じられ、寝箱の上には蚊よけのランプがともされます。 その、オレンジ色のひかりがぽうっと輝く窓のむこうに、やもりがあらわれました。 窓は、厚いすりガラスで、とんぼの浮き彫りもようがはいっています。 しろいガラスのとんぼたちが、うす黄色にひかって飛ぶそのむこうがわに、夜の虫があつまってきます。 やもりは、毎晩、その虫たちを食事にくるのでした。 やもりのお腹は、白い土いろで、ぷっくりしているのにすんなりとした曲線のりんかくで
庭へつづく通路のドアが開け放たれ、景色が見えるから、わたしたちはそっちへ顔を向けています。 「ねえ、ピピ。あじさいが、咲いているでしょ」 わたしは、わたしの顔のすぐななめ下で、みじかいみじかいちゃいろの毛をすべすべとそろえ、かわいい、あたたかい頭のてっぺんを見せているピピに、そっと話しかけました。 そうです。 庭の、東のかどのあじさいの木が、その芯(しん)の粒のところにあおく白い香りをとじこめながら、ひらひらとかるく舞い上がっていきそうな水色の花をたくさんあつめて、まる
しばらく、そんな風を見たあとで、わたしたちは立ち上がり、庭をわたって、こんどは玄関ポーチの白いコンクリートの上に、並んで座りました。 目のまえに、ほっそりしてまだ若いライラックの木の、日をとおしてところどころ透きとおった場所が黄緑いろの、やさしげな葉峰(はみね)が見えています。 その向こうがわに、夏をひかえた南の山が、もうすっかり大きくふくらんでいます。 こうやって、ピピと同じ高さになって見あげると、世界はいつだってずっと大きく、あざやかに動くのです。 夕闇がくるころ、
梅雨の晴れ間が、やってきました。 それまでは、まるで巨(おお)きな灰色の、洞窟(どうくつ)の暗がりで生きているようでした。 その壁はふかふかして、時におそろしげに動き、天井から水をそそいでくるのです。 でなければ、白い紙をとおしたみたいにぼんやり薄明るい、箱の中。 そんな、毎日でした。 でも、今日はまるでちがう。 壁も、覆(おお)いも、ぜんぶ取り払ったあざやかな昼間です。 ピピとわたしは、いつものようにふたり並んで、勝手口の四角いコンクリートの踏み段にすわりました。
この前なんか、もう夜もおそいのに、何度居間から出そうとしても、ちょうちょみたいにひらひらと耳をふって逃げてゆき、そのくせ、からだは眠くてたまらないものだから、すぐに勝手口のところへもどってきて、ドアに向かって立っているのでした。 だけど、今夜は・・ 今夜は、ピピは 「ふいっ」 というかんじで、あっさりと、勝手口のふみ段をおりていきました。 そして、寝箱にとびこみます。 「カッタン!」 ピピの重みで、アルミ二ウムの箱の底が、おどけた歓迎の音を立てます。 ・・ピピが、
そんな散歩のあと、うちで夕ご飯をたべたあと、ピピが居間にいる夜のあいだ、台所のわきにある勝手口のドアは、ずっと細く開けてあります。 それは、ピピがおしっこに行きたくなったとき、いつでも外に出られるようにするためです。 ある晩、ピピは、いつものように居間ですごし、いつものように爪音高く、木の床を ちゃかちゃか、ちゃかちゃか、ちゃかちゃかちゃか! と歩き回ったあとで、この、勝手口のドアの前に立ちました。 そして、ドアのすき間の闇に顔を向けたまま、静かに立っています。 そのう
つくつくふわふわ、つくつくふわふわ・・ ちいさなあたまと肩を、背中を、お尻としっぽを、ぴこぴこと弾ませて歩くピピ。 それを見おろしながら、わたしは、こう思いました。 「そうか。ピピは、わたしのことがとても好きなのだ」 そしてわたしも、ピピのことがとても好き。 いつだっけ? 出会ったのは・・・ いつもそばにいるよね 同じ笑顔で (trf KOOL LOVERS SENTIMENTAL) わたしは、まわりに誰もいない夜の坂道で、こんなうたを口ずさんだのです。
そして、だんだんわかってきたのです。 ピピは、わたしにほめられて 「とってもうれし!!」 かったのです。 そうでした。 前に、ゴルフ場をかこむ高いポプラの木の道で、ピピがいやいやに、がまんにがまんをかさね、自分自身とたたかって、ほとんど前に進まない横ブラ歩きで、それでもわたしにつながれにやってきたとき、そのピピの努力をわたしは何ひとつほめず、ただ、黙って歩きだしました。 あれは、わたしの失敗で、ピピに対する失礼でした。 今、わたしはあの時のことをどこかでおぼえていて、
おすわりをしているピピの首輪に引き綱をつけると、わたしは、ピピの頭や肩をせっせとなでました。 なでながら、こう言いました。 「ねえ、ピピ。呼んだらちゃんと来たじゃ? いい子ちび。ちょんちゃんは、いい子ピピ!!」 ピピは、目をそらしたまま座っています。 わたしは、立ち上がります。 「帰ろう」 するとピピは、つま先だけで踊るように、ほとんど浮き上がってしまいそうに歩きだしたのです。 つくつく、ふわふわ、つくつく、ふわふわ!! その様子を、わたしはふしぎな気持ちで見おろしま
逃げるように、でもこちらを気にしながら斜面へさまよいのぼり、試すような行動をするピピに、わたしは、あえて怒りました。 「ぴいん!!」 引き綱の金具でガードレールをたたくと、その澄んだ高い音が闇の中に響きわたります。 すると 「せかせかせかせか!!」 ピピは、あわててやってきました。 そんなことがあってから、この坂道の一番下まで来ると、わたしはひょこりとしゃがみこみます。 「ピピ、おいで」 そう言って、わたしはもう、動きません。 ピピは、草の斜面や、その先の細い帯のよ
こんなふうにして、山の砂浜や古墳のような台地を歩きおえると、わたしとピピは、帰り道の坂をおりていきます。 その、あたらしいアスファルトがしっとりと黒い坂道は、花を終えた桜とツツジが右にも左にもずうっと並んで、したたる緑のながいながい両腕を、坂のふもとまでしなやかに伸ばしています。 その緑の腕が曲がるところに、斜面のふちに突き出したような休憩所がありました。 木の幹にまぎれこむようなこげ茶色のあずま屋の下に、同じ色のテーブルとベンチが置いてあります。 むかし、わたしは