随筆(2021/10/26):鬱と躁をなだめすかして渡り切る(中盤)
4.双極性障害の時は、理性や意志の力はあってなきようなものでしかない
4.1.双極性障害の時は、理性や意志の力はあってなきようなものでしかない
鬱はブレーキがキマっていてハンドルが利かない状態。
躁はアクセルがキマっていてハンドルが利かない状態。
事故る(身体的社会的に失敗する)可能性、体感的にも、躁の方が高い。
出力が高い? 事故る確率も高いし、その時は被害もべらぼうに大きいということなのだから、その出力の高さ、何ら歓迎すべき事態ではない。
というのが、前回の記事のポイントでした。
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「じゃあどうすればハンドルで捌けるんだよ」
という話になって来ます。
通常はここで「理性」とか「意志力」とか答えたくなると思うのです。
が、これは、ダメです。
4.2.カントの純粋理性と実践理性の(解像度をメチャメチャ落とした)説明
例えば、カントがいう理性には、二つあります。
純粋理性の「この前提で、どういう理屈が浮かび上がるか」と。
実践理性の「この理屈を具体的にやってみて実例をもたらそうとすると、どんな結果になるか」というやつです。(だいぶザックリと情報量を落とした言い方だな)
どちらも何となく人間の脳髄にありそうに聞こえますね。あるとして話を進めましょう。
4.3.鬱や躁があると、歪んだ前提から、歪んだ理屈が生じ、歪んだ結果をもたらす
4.3.1.鬱や躁があると、歪んだ前提から、歪んだ理屈が生じ、歪んだ結果をもたらす
で、鬱や躁の場合はどうなるか。
これがなんと、純粋理性、実践理性、両方ともバグるんですよ。
鬱や躁の場合、得られた知識は、全部
「無理そう」
とか、
「実際には無理そうなのだが、そう思えないほどガンギマりバカになっているので、イケイケになっている」
という、だいぶ非現実的な色がついています。
4.3.2.鬱の場合の認知の歪みと、その奇妙な効用
鬱の時は、純粋理性は「無理そう」という歪んだ前提から理屈を立てることになります。
当然、それは「どう考えても無理そう」という歪んだ理屈になる。
そこから実例を具体的にもたらそうとする実践理性も、歪んだ理屈からしか出発しえないから、「これをやるの、無理」という歪んだ結果になる。
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非常に奇妙な話ですが、生き残りのことだけ考えると、これが役に立つことがあります。
「無理そう」と思っていることを実践に移すと、通常それはあっという間に出来なくなるので、デカイ失敗をしでかすリスクは大幅に下がります。
精々失速してトボトボと引き上げるか、あるいは最初から動けなくなる。少なくとも、壁に激突することはない。
鬱の認知の歪みは、失敗の可能性が高い実践を妨げる効果がある。
要は、認識上は非現実的であっても、実践上で実際にセーフティの利益があるなら、それは適応的である、ということです。
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「えー。そんなんありか。どうにも受け入れがたいぞ。
何で歪んだ前提と理屈と結果で、有益な成果が残るんだ?
成果に至るまで、全部歪んでろよ」
そう言いたくなる気持ちは分からんでもない。(ちなみにコレ、おおよそ信じられないほど無礼なこと言ってるんだからな)
でも、まあ、現に生き残ってるなら、途中経過の歪みは別に全体としてはマイナスに効いていない訳だ。
そういうセーフかつラッキーなパターンが、実際には案外多々ありうるのです。
ここは、現実に対して、「そんなんおかしい」と怒っていても、しょうがない。
あるものはある。ないものはない。何とも言えないものは何とも言えない。
それを認められるかどうかが、一番大事な現実主義の第一歩だ。
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逆に、そんな博打みたいなセーフやラッキーを狙うべきではない。
あまりそういうのにこだわらない方がいいですよ。
基本的には、ちゃんと認識の歪みを適切に減らして、立てる予測や計画の歪みを減らす方が、実践上はずっと大きいメリットがある。
これには成果の質や量の不安定さを減らす効果があるから、安定して成果が出る。大いに頼りになる。
そっちをまず練り上げていきましょう。
4.3.3.躁の場合の認知の歪みと、その奇妙な陥穽
さて、躁です。
「実際には無理そうなのだが、そう思えないほどガンギマりバカになっているので、イケイケになっている」
ことが多くなりますね。
何でもやれそうに見えるが、やらねーほーがいーことまでやれそうに見えてしまう。
シンプルに、「イケる」という歪んだ前提から「イケるとしか思えん」という歪んだ理屈が生じ、「イケた場合以外の、例えば失敗した時の対策は、全く立てていない」という歪んだ結果になる。
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成果?
後述するが、成功する可能性は低く、失敗する可能性は高い。
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特に、成功するために計画性が要る場合の話をします。
何かというと、こういう躁の時は、その計画性が「やりゃあ出来る」という歪んだ理屈で捻じ曲げられていることになる。
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計画を立てるということは、
「やって出来るようにしなければ、やれないことを、うまくやる」
ということだ。
そこで
「うまくやるとかは、失敗を防いでぶち壊しにならないようにするとかは、どうでもいい。やりゃあ出来る」
と言い抜ける計画立案者、まともな失敗対策など取れる訳がない。
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つまり、こういう姿勢で、計画性のあることをやる場合、それは計画としてデタラメなものにしかなりえない。
計画がメチャクチャなんだから、その計画が成功する確率は、丁半博打と変わらない。ほぼ失敗すると見ていい。
というか、成功しても、それは自分が計画的に得たものではないから、自分の望み通りの成果からはかけ離れたものになるだろう。
望み通りになってない成功なんか、失敗したのと、大して変わらんでしょう。
こんなんじゃ、困るんですよね。どっちに転んでも、本当には嬉しくないんだから。
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「危ないなんかからは、逃げた方が長生きできる」というのは、感覚を持つ動物にとって非常に重要な機能の一つです。
そこから鑑みたら、「危ないなんかに突っ込みたがるようになる」のは、かなり最悪な状態です。というか、論外と言ってもいい。
闇雲に突っ込んで失敗したり、思ってた成果と違うことになる。いつか、近いうちに、ダメージに耐え切れなくなって、死ぬぞ。
青春にはそういうことがあるかもしれないが、青春を過ぎてからこれではいけません。
4.4.理性や意志の力が、鬱や躁の時にあてにならないなら、どうすればよいのか?
理性や意志の力が、鬱や躁の時にあてにならないなら、どうすればよいのか?
それは、「アクセルとブレーキに頼り過ぎず、これらに「外側から」コントロールをかけていくこと」です。
その話を次回やって、このコラムを終えたいと思います。終わればいいですね(本当は前半後半の2回だったのに、書いてたら3回になっちまった。またこのパターンか…)