夢見るコンサータ
私の普段の話とか
私が好きなアーティストについて書いています
アニメ、映画、本、ゲーム、様々な私の好きな作品についてまとめたものです
昨日は前記事が殆どの人の目に触れてもらえない事に拗ねて投稿しませんでした。ごめんなさい。今日は大森靖子ちゃんっていう、不思議と現実を繋げる橋みたいな存在について語ります。いつも彼女の音楽を聞くと、現実を飛び越えて一足先に未来に駆け込んでくれるような閃きを感じるんです。彼女の言葉、歌、視点が私の中に新鮮な風を吹き込んでくれて、心地よくてついつい眠れぬ夜も彼女の音楽とともに過ごしてしまいます。彼女の歌詞一つ取っても、まるで詩のような美しさがあります。ごく普通の日常の一コマを描きな
一万円を躊躇なく使う方法についての小論 結論から言うと、そんな方法は存在しない、と私は思う。――だが、それをもって話を終わらせてしまうのはあまりに味気ないし、この紙に何を書きつけるべきかと考えたとき、私の思考は自然と「躊躇」と「一万円」という二つの単語に引き寄せられた。ここからは、私の小さな持論の展開を許してほしい。 一万円札。かつて誰もがその鮮やかな紫の肖像に目を奪われ、折り目一つついていないその姿に神聖さすら覚えたことがあるだろう。私は、あの紙幣を「特別なもの」として
1年分プレゼント企画 今急激に流行っていますよね。SNSで「○○が1年分当たる!」という企画。それを見るたびに私は心の中で叫ぶ。「喉から手が出るほど欲しい!」と。どんな商品であれ、1年分という響きは人の欲望を揺さぶる何かがある。それが日用品であれば「これで生活費が浮く」と小さな安心感を覚えるし、嗜好品であれば「1年間、これだけで幸せを感じられる」と期待が膨らむ。 1年分、という時間軸が持つ魅力について考える。これには2つの要素があると思う。 1 安心感と連続性の魔法
私は人を本に当てはめるのが好きだ。 こんなことを言うと少し奇妙に思われるかもしれない。けれども私にとっては自然な行為なのだ。人の言葉や態度、時にはその人の佇まいを見ていると、「この人にはこんな本が似合う」「あの本を読んだら何を思うだろう」と考えてしまう。それは単なる遊びではなく、その人をもっと理解したいという気持ちの表れなのだと思った。 たとえば母なら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がぴったりだと思う。彼女は優しさを持ち、決して冷たい人ではない。けれど、日常の中に
最近、スキンケアに対する執着が自分でも怖くなるほど強くなってきている。どうしてこんなに過剰になってしまったのか、ふと冷静になって考えてみると、自分の中に渦巻く劣等感が理由なんだと気づかされる。世の中には、見た目至上主義とも言えるような価値観、つまりルッキズムが溢れていて、容姿がすべてを決定づけるように感じてしまう。誰かに愛されるためには、美しさが必要なんだと無意識のうちに思い込んでしまっているのかもしれない。そんな考え方が私を縛り付けている。 スキンケアを一度始めると、どこ
秋風が冷たく頬を撫でる夕暮れ、ポストの中に一通の封筒が入っていた。その冷たい感触に、何か不吉な予感が胸に広がる。 封筒の表には『審査結果在中』と、無機質な文字が並んでいる。何度も挑戦し、何度も打ち砕かれてきた記憶が頭をかすめるが、どこかでまだ望みを捨てられない自分がいた。 家に戻り、息を整えながら封を切ると、一枚の紙が出てきた。 審査の結果、今回は残念ながら落選となりました 〇〇芸大 その冷たい文字が、胸の奥に突き刺さる。何度も目
神聖かまってちゃんを聴いた時、まるで世界の終わりが目の前に広がっているような、そんな不安と衝動に包まれた。彼らの音楽は、一見ただの混乱と騒音のように思えるけれど、その中には壊れそうなほど繊細な心が隠れていて、だからこそ心の奥深くに響く。彼らの曲には「叫び」が詰まっている。ただの歌声じゃなくて、どこかで自分自身に向かって放たれている絶望の叫び。それが、わたしを揺さぶり、掴んで離さない。 神聖かまってちゃんは、いつだって現実から逃げ出そうとしているように感じる。どこにも行き場の
自分の器を超えるプライドを抱えるのは、 きっと生きづらさを生む要因になると思う。 勝てない相手には勝てないし、敵わないものに挑む勇気が大事だとよく言われるけれど、それは時として無駄なあがきに変わる。どうしても手が届かないものもあれば、努力では超えられない壁も存在する。それが現実なのに、同級生たちは「諦めるのは逃げだ」とか「努力すればなんでもできる」と信じている。話が噛み合わないのは、私がその理想論を受け入れられないからかもしれない。生まれ持った才能や向き不向きが人それぞれあ
最近、クラスの男子たちが、女子の悪口を言っているのがちらほら耳に入るようになった。特に、みんなに嫌われていると噂される女子に対しては、あからさまに冷たい態度をとる姿が見受けられる。その視線がいつか自分にも向くのではないかと考えると、ひやりとする。気にしないようにと心がけてはいるけれど、結局は私もまだ多感な高校生だ。男の子からの評価なんて気にしなくても、他人から陰で何か言われているかもしれないと思うと、少なからず心がざわつく。 ある日、思い切って男友達に聞いてみたところ、幸運
私が書く文章を、いつも大事に受け取ってくれる同い年のネッ友がいる。彼女とのつながりは、ふとした偶然だったはずなのに、今や彼女とのやり取りが私の日常の楽しみとなっている。直接会ったことはないし、同じ空の下で同じ瞬間を共有したわけでもない。それでも、彼女が私の文章を褒めてくれるたび、そこに共鳴する何かがあると感じる。彼女とのやり取りには、いつも見えない共通の線があって、その線がどこかで私たちを繋げているような気がする。 文章を書く理由なんて、最初はただの衝動だったかもしれない。
私は自分のことを虐待児だと思ったことはない。 いや、たまにそう思ってしまいそうになることはあったけれど、いつもその直前で足を止めてしまう。私の家は、世間から見れば普通だったはずだし、少しだけ毒親だったのだと思う。ただ、特におばあちゃんは酷かった。私が小さい頃、彼女の厳しい声が一番響いていた。優しい日もあったはずなのに、どうしてあの日々のことばかり思い出すのだろう。 本当は、誰かに家族のことを非難してほしかった。誰かが「ひどいね、そんなの間違ってるよ」って言ってくれたなら、
首を吊るという行為は、まるで最後の扉を開けるための儀式のように思える。自分の命を自らの手で終わらせる、その一瞬の決断が、こんなにも冷静で、そしてどこか夢の中にいるような感覚を伴うものだとは、最初は想像もしていなかった。部屋の天井にぶら下がるロープが、静かにわたしを待っている。何度も考えた、何度も準備をした、その最後の瞬間が、こんなにも簡単に訪れてしまうことが怖かった。 けれど、その恐怖よりも、もっと強いものがわたしを動かしていた。何も感じない日々、虚無に押しつぶされそうな日
死生観というものは、人生の中で幾度となく揺れ動き、形を変えていく。幼い頃、死はただの終わり、黒い闇に包まれた恐怖そのものだった。けれど、年月が過ぎるにつれて、その「終わり」が必ずしも恐ろしいものではないという感覚がじわじわと心に染み込んでくる。死は逃れられない事実であり、それが必ず訪れるものだということを理解した時、わたしの中で生と死の境界線がぼやけ始めた。 生きることは、ただその「終わり」に向かって足を進めているに過ぎない。だからこそ、日々の出来事や感情は、一時的なもので
光と風の中で揺れるスティーヴンソンの姿に、自分の過去の後悔が重なって見える瞬間がある。中島敦の『光と風と夢』で描かれる彼は、まるで南洋の孤島に漂着した自分自身のようだ。自由を求め、理想を追いながらも、その先に待つものが虚無であることに気づいている。それでも手を伸ばさずにはいられない、その姿が痛々しいほどに美しい。そして、わたし自身もまた、同じように生と死の狭間で揺れる存在だ。 「昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じ
最初に刃を当てたのは、寒い冬の朝だった。冷たく硬い金属が肌に触れる瞬間、わたしはまだ迷っていた。傷つけることに意味はあるのだろうか?誰も気づかない痛みが、わたしを救えるのだろうか? だけど、どうしようもないこの感覚、喉の奥に張り付いた言葉が出てこないもどかしさが、どんどん体の奥に溜まっていって、逃げ場がない。だから、自分の腕に逃げたんだ。自分が自分に残していく傷跡だけが、わたしの存在を確かめてくれる印だった。 血がにじむ瞬間、痛みは思ったよりも少なくて、ただぼんやりとした熱
数多の日数、投稿をサボっていた自分が悪いのだがいいねがこれとなく付かないと自信が滅法なくなる。それは、小さな数字が心を支配する現代の一瞬の感情。何気なく投稿した言葉や写真、誰かに見てもらうために指先で送り出すのに、その瞬間に鳴り響く通知音を待つ時間の長さが不安を呼び起こす。「いいね」が付かないという事実は、まるで自分自身が否定されたかのような感覚を呼び覚ます。誰にも届かない、誰の心にも触れられない。画面の向こう側にある虚無が、自分の存在をかき消していくように思える。 「いい