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本棚に映るあなた

私は人を本に当てはめるのが好きだ。
こんなことを言うと少し奇妙に思われるかもしれない。けれども私にとっては自然な行為なのだ。人の言葉や態度、時にはその人の佇まいを見ていると、「この人にはこんな本が似合う」「あの本を読んだら何を思うだろう」と考えてしまう。それは単なる遊びではなく、その人をもっと理解したいという気持ちの表れなのだと思った。

たとえば母なら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がぴったりだと思う。彼女は優しさを持ち、決して冷たい人ではない。けれど、日常の中にいつも厳しさや、物事を深く考える姿勢が垣間見える。『カラマーゾフの兄弟』に登場する人物たちのように、彼女の中にもさまざまな感情が入り混じっているのだろう。そして、彼女は読んだ感想を必ず伝えてくれるタイプだ。「あの登場人物の考えが理解できる」とか、「この場面にはちょっと共感できない」とか、きっと一つ一つ丁寧に話してくれるに違いない。その率直さが、よく見えるだろう。

父はまた別だ。彼はとにかくよく喋る人だ。話す内容はたいていどうでもいいようなことばかりなのに、肝心なこと――たとえば、自分の本音や大切にしていること――については一切口を開かない。そんな父にはヘミングウェイの『老人と海』を選びたい。老人が海と向き合い、ただひたすらに魚と闘い続ける姿は、父の無言の部分、何かと闘っているように見える背中と重なる気がする。もしこの本を父に渡したら、読み終えた後で「まぁ面白かった」と軽く言うかもしれない。でもその一言の裏には、父なりの思いが隠されているのだろう。それを深く聞き出すのは、私にはできない気がするけれど。

こうして考えると、人を本に当てはめるという行為は、私自身の感覚や思い込みに過ぎないのかもしれない。それでも、本を通じて誰かを思い浮かべるたびに、その人の新しい側面に気づける気がして嬉しい。そして、それを言葉にして渡したいと思うとき、私の中の愛情が動いているのだと感じるのだ。

では、私はどんな本に当てはめられるだろう。正直、まだ答えはわからない。でも、私を知る誰かがふと考え、「この本が彼女っぽいな」と感じてくれたら――それはそれで素敵なことだと思う。きっと、その本の中には私自身も知らない私が潜んでいるに違いないのだから。

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