狭間で漂う
死生観というものは、人生の中で幾度となく揺れ動き、形を変えていく。幼い頃、死はただの終わり、黒い闇に包まれた恐怖そのものだった。けれど、年月が過ぎるにつれて、その「終わり」が必ずしも恐ろしいものではないという感覚がじわじわと心に染み込んでくる。死は逃れられない事実であり、それが必ず訪れるものだということを理解した時、わたしの中で生と死の境界線がぼやけ始めた。
生きることは、ただその「終わり」に向かって足を進めているに過ぎない。だからこそ、日々の出来事や感情は、一時的なものでしかないという無常感が漂う。喜びも悲しみも、全ては消え去るものだという事実があるからこそ、生きることの虚しさが胸に広がる瞬間がある。死に向かうという運命の前では、どれほどの努力も、どれほどの愛も、いつかは意味を失う。それが死生観の冷酷さだ。
しかし、その無意味さの中で生き続けること自体が、ある種の抵抗なのかもしれない。死がすべてを奪うものだとしても、その瞬間までの過程で感じる痛みや喜びは、生の証だ。死を理解し、受け入れることで、わたしは逆に生の価値を考えざるを得ない。死を意識するからこそ、今ここにある瞬間に意味があるように感じられる。死と生は対立するものではなく、むしろ共に歩む存在だ。死があるからこそ生がある。生があるからこそ死がある。その循環の中で、わたしはただ、漂うように生きているに過ぎない。
時折、死が救いに思える瞬間もある。何もかもが重く、苦しく、先が見えない時、その「終わり」にすべてを投げ出したくなる誘惑が襲ってくる。けれど、その先にあるのは、ただの虚無でしかない。死は救いではなく、ただの終わりだ。それを理解した時、わたしは死への憧れを手放し、生きることにもう少しだけ目を向けることができるようになった。
結局、死はわたしをいつでも待っている。それは、避けられない結末だ。だからこそ、生きることに執着しないという選択肢も、ある意味ではわたしの死生観の一部なのかもしれない。生も死も、ただ流れていくものだとしたら、その流れの中で、わたしは一体何を見つけ出せるのだろうか。
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