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一福千遥
2020年11月12日 21:18
「旅立ちの季節、っていつがふさわしいのだろう?」 級友の問いかけに、僕は紅と黄に彩られている学院の門をじっと見つめた。「この学院で心身を整え、いずれときがきたら、きみたちはあの門から外の世界へと旅立つ権利を得られる」と入学時に教わって以来、僕たちはその日をどれほど待ち望んできたかしれない。 級友たちはめいめいに「いっぱい花が咲いてる季節がいいなあ」「いや、あえて夏の太陽がギラつく日に」「だっ
2020年11月12日 21:28
秋が深まるたび、舞台に立つ歌い手は溜め息すれすれの吐息を交えた、客に囁きかけるような歌をのせるようになる。これは、意気揚々と旅路についたものの、加減も知らずに使っていた路銀がいよいよ尽き、空腹と不安で道の端にうずくまっていた僕を拾ってくれた酒場で知った、外の世界における法則のひとつ──かもしれない。「でも不思議なのは、酔って騒いでいたお客さんたちも、そういう曲がかかると一斉にしゅん、とおとなし
2020年11月13日 21:17
「東の果てには『コトノハ』という単語があるそうよ」 すてき、とマダム・ロクサーヌが、あまい蜜とぴりりと辛いスパイスとを掛け合わせたような声で囁いた。 彼女をいとおしむ「誰か」のあることを色濃く感じさせるマダム・ロクサーヌの歌は、ひとつなりと恋をしたことがある人間には、胸のやわらかくよわいところに、深く刺さって容易くは抜けない──これは店主の言だ。しかしそうと聞いてしまうと、世のつれづれから取り
2020年11月13日 21:24
「『琴瑟相和す』──東の端にすこし滞在したときに、僕が聞いた言葉」 マダム・ロクサーヌのあとで舞台に立った流しのヴァイオリン弾きが、僕に囁いた。ウィスキーソーダの名残、かすかな樽の匂いと、彼の手にしているヴァイオリンの奥から漂う木の香りが重なる。「キンシツアイワス?」「ふたつの琴が呼吸を揃え、気心も和してうつくしく相い響く。それはとても素敵なことだけど」 ヒトはなかなかままならないね、と彼
2020年11月14日 22:00
朝日が窓の桟を縁取るころになって、酔っぱらいたちはようやく家路につく。やれやれ、あとは掃除が終われば、僕もベッドへと辿り着ける。噛み殺そうともせず、おおっぴらに解放した大あくびでとともに背をぐいっと勢いよく逸らし──飾り棚のチェス盤と駒のひとそろいに気がついた。「ああ、そいつな」 まかないの朝食を作っていた店主が、僕の視線に気づいて口を開く。「そいつは古戦場だ」「古戦場?」 またずいぶ
2020年11月14日 22:03
そろそろ路銀も貯まった頃合いだな、昼夜逆転生活はもう卒業してもいいだろう。霜月の景色を楽しんでこい──と、路地裏の酒場の店主が紹介状とともに送り出してくれたのは、山間の街道入り口にある、こじんまりとしたカフェだった。 黄に紅と、色づく葉がはらはらと舞う季節、田舎のちいさな町には珍しい、かっきりとしたオランジュ色のペンキで塗られた扉をそろっと開けてみる。「サーラ!」 白髪をきっちりと結った、
2020年11月15日 21:21
恋の溜息吹きかかる 秋の夕暮れたそがれどきよ──…… コスモス色のワンピースを着たニノンが歌うのは、彼女のひいおばあさんが若い頃に流行っていたんじゃないかと思うほど古いシャンソンだった。哀調を帯びた調べも愁いに満ちた歌詞も、僕とそう年が変わらないニノンには早すぎるんじゃないか──と、皿を洗いながら僕は思いながら聞いていたけれど、お客さまたちの反応は──うん、学芸会の舞台に立つ孫娘を見守るような
2020年11月15日 21:23
「さあ占って! マダム・ルイーゼ!」 マダム・シーラの店の片隅で、のんびりとタロットカードをめくっている、いささか時代がかった灰色のドレスをまとう老嬢に、ステージダンサーのベレニスが詰め寄った。「……御免被りたいねえ」 やわらかな口調でしっかり拒絶したマダム・ルイーゼだが、ベレニスも引き下がる気配はない。「もう、そんなこと言わないでよ! アタシにとびっきりの幸運がいつ舞い込んでくるのか、
2020年11月16日 21:12
「秋の空って、こんな透きとおった色を映すんだ──なんて思いながらさ、こう見上げて」 まだ血の気のたっぷりありあまってそうな若い楽士が、カウンターで供された白ワインで一息ついてから、そう、僕へと話しかけてきた。ずいぶんと古びたヴァイオリンを相棒に暮れゆく秋のそこかしこに漂うセンチメンタルを、さらに倍増させてくれる演奏の余韻にまだ浸っていた僕は気の利いた受け答えもできずにいたが、彼はそんな僕にはお構
2020年11月16日 21:14
鈴掛の樹の葉陰で、かろん、と実が音を立てそうな風が吹くころになると、窓縁の席はすべて埋まってしまう。マダム・シーラと同じくらいか、すこし若いくらいの年輩のひとたちはみな、温かい紅茶やショコラ、ショー仕立てのシトロンとワインを傍らに、湯気を顎にあてながら──みんなそろって、色づいた葉が風に揺れ、暮れなずむ空へと舞う山のほうをじっと見つめている。 山間添いの、昔からある街道沿いのちいさなカフェなの
2020年11月17日 21:06
僕が駅に駆けつけた、と同時に、汽車の扉は無情にもぴたりと閉ざされた。次の汽車が来るまで、あとだいたい一時間半。 さて、どうしたものか──と頭をかいてあたりを見回すが、ほんとうに周りには店ひとつとしてなく、さらに言えば駅にも待合室すらない。 まあ、今日は晴れてて、今のところ寒くないのが救いかな、と呟いて、僕はプラットホームに備え付けの木のベンチに腰を下ろし、マダム・シーラが持たせてくれた本をぱ
2020年11月17日 21:08
マダム・シーラのしたためた紹介状は、彼女があの街でカフェを営む前にいろいろ相談に乗ってくれたという、ほとんど師匠筋にあたるような先達の店宛てだった。なんでも、店主の一族が百年近く続けている店らしい──となれば、さぞや格式も高く、荘厳でかっきりとした店だろうことは想像がつく。 そういうところで一度鍛えられるのも、また人生には必要かな──怖いけど。 などと思いながら、紹介状の隅に書き添えられた住
2020年11月18日 21:15
マドモワゼル・レーヌの店の近くには、店の倍以上の樹齢を生きるマロニエがある。さすがにそれだけの年数を重ねた証の、ごつごつとした幹の感触に圧倒されるが、そこにぽかりと開いている、ほとんど真円にちかい形状の洞と、その真上へとしなだれかかる枝に下げられた『ここは預かり所でもポストでもない』と勢いのつきすぎた筆跡で書かれているプレートがやけに目について──当然のことながら、気になった。「あのマロニエの
2020年11月18日 21:17
「この店の扉をはじめて開けることを許され、おそるおそるだが足を踏み入れた瞬間──ああ、ここを自分の生涯の宿り木にしたい、と思っていたんだ。けれど……」 マドモワゼル・レーヌの店に訪れた老紳士が、ふ、とカウンターで苦い笑みを浮かべた。 ──無理もない。 どんな店でも代替わりすれば、多少なりとも雰囲気が変わってしまうのは世のうつろいとしてよくある話だ。けれども新入学からふた月過ぎて、学校に慣れ