洞の内
マドモワゼル・レーヌの店の近くには、店の倍以上の樹齢を生きるマロニエがある。さすがにそれだけの年数を重ねた証の、ごつごつとした幹の感触に圧倒されるが、そこにぽかりと開いている、ほとんど真円にちかい形状の洞と、その真上へとしなだれかかる枝に下げられた『ここは預かり所でもポストでもない』と勢いのつきすぎた筆跡で書かれているプレートがやけに目について──当然のことながら、気になった。
「あのマロニエの樹洞? 昔から有名なのよね。青い時代、学生特有のあちらこちらに持て余した感情を紙に書きつけて、えいやっ、と投げ入れてくのにちょうどいいって。
でもねえ、そんなことするの、ひとりやふたりじゃないでしょう? 洞のなかに丸めた紙がこれでもかと入れられているのを見かねて、おじいちゃんがあのプレートを下げたらしいの」
マドモワゼル・レーヌの言葉に興味を引かれた僕は、脚立を持っていて樹洞のなかをそっと覗き込んでみた。
どんな言葉を丸めた紙が、洞の奥に眠っているのだろう──けれど、僕のそんな好奇心は、洞のなかでかさかさと枯れたマロニエの葉が身を寄せ合っているのは見えたけれど、肝心の丸めた紙はひとつもなかったことでぺしゅんとしぼんだ。
そのことを、脚立を返しがてらマドモワゼル・レーヌに報告すると、
「そうねえ、さすがに今は紙を投げ入れる人も、そうそういないんじゃないかしら?」
と、あっさりした答えが返ってきた。
「おじいさんのプレートのおかげでしょうか」
「うーん、それだけでコトがすんだなら、完っ璧に美談だったんだけどね……」
珍しく、マドモワゼル・レーヌが困ったように眉をひそめた。
「あんまり丸めた書きつけが溜まっていくことに怒ったおじいちゃんが、一番手近にあった紙をほどいて、それこそこの界隈の隅々まで聞こえそうな大声で読み上げたから、っていうのが、まあ大筋の理由なんだけどね……
でもね、いくら青春の季節にありがちなすれ違いとか、ボタンの掛け違いにしても、それでもマロニエは黙して受け止めようとしていたのかもしれない。だけど、おじいちゃんが読み上げていた紙のなかにつづられた言葉が、あんまりかなしくてやるせなくて──その翌年はね、マロニエが全然花をつけなかったり、若葉のうちにたくさん葉を落としたりしてね。
そのあたりからよ、あの樹洞のなかに紙を投げ入れようとするひとがいなくなったのは」
笑いながら話すマドモワゼル・レーヌだけれど、僕は背筋が粟立つのをどうしても止められない。
(コトノハ、という東の言葉があることを、マダム・ロクサーヌが教えてくれたけれど)
この樹洞がいま抱えるのは、冬越しのための葉だけでいいんだ──そう、僕は思う。
書かれた言葉が窺い知れないほど固く丸められた紙なら、知らぬうちは抱えられたのかもしれない。けれど、知ってしまったかなしい言葉は、マロニエの身をより深く削ってしまうのだ、とも。
novelber 13.樹洞
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