歳月、幾足
そろそろ路銀も貯まった頃合いだな、昼夜逆転生活はもう卒業してもいいだろう。霜月の景色を楽しんでこい──と、路地裏の酒場の店主が紹介状とともに送り出してくれたのは、山間の街道入り口にある、こじんまりとしたカフェだった。
黄に紅と、色づく葉がはらはらと舞う季節、田舎のちいさな町には珍しい、かっきりとしたオランジュ色のペンキで塗られた扉をそろっと開けてみる。
「サーラ!」
白髪をきっちりと結った、青いドレスの老婦人がはなやぎと驚愕がまざったような声をかけたが──僕の姿を見るなり、力なく椅子へともたれ掛かる。
「あの」
僕が出した紹介状に、老婦人は目を通し、あのひとの紹介ならたしかね。と微笑んでくれた。
「あたしはシーラ。山の寒さを知らずに行く旅人や、風に震えながら山越えしてきたひとのためにこの店を開けているの」
どうぞ、と出してくれたホットミルクの湯気は、たしかにあの居酒屋で見たそれよりも濃い。着込んでいるから気づきにくいだけで、ここはたしかに街よりずっと寒いのだろう、と思いながら、あまいミルクをすすったあとで、
「あの、さっき声をかけていたサーラ、さんというのは」
気になっていたことを、僕は問いかけた。
「あたしの双子の姉。もっとも、一緒に暮らしたのはたかだか十六年。もうかれこれ五十年近く、会ってないけれどもね──今時分の季節だったかしら、大風にガチガチと歯を鳴らしながら山を降りてきた男とね、手に手を取って、出て行ってしまったの」
そうマダム・シーラは語り、僕に白砂糖をたっぷりスプーンですくって入れたホットミルクのおかわりを差しだしてくれた。
「……でもね、たまに夢に見るの。サーラが揺り籠のなかで眠る子どもに子守唄を歌ってあげているところとか、秋の青空にひるがえる洗濯物のなかで、ぼんやりもの思いにふけっているところ、みたいなのをね」
ひとつ息をつき、マダム・シーラは山へと視線をうつす。その瞳の青に、遮る雲の影が重なった。
「──それでもお姉さんは、帰っては……」
「来てくれないでしょうね」
ときぐすりでも、癒やせぬ疵もあるのですもの。
ぷつぷつと気泡が浮かぶガラスに映るマダム・シーラの横顔。二重写しの同じ顔をしたひとが、この世界にもうひとり存在していて──山から降りてきた男が、選んだのは。
「しあわせだといいのだけれど」
胸の奥底から祈る言葉、それを口に乗せ、声にできるようになるまで、五十年近くもかかったのか──そんなマダム・シーラが過ごした歳月について考えるほど、とうてい及びもつかない果てしなさに目眩を覚えながら、僕はじっと揺らぐホットミルクを見つめるしかなかった。
Novelber 6.双子
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