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あのゲニウス・ロキ ②
(前回記事)
2024年 8月9日 金曜
近くに砂浜があった。日が出たばかりの時間に、歩いて砂浜へ行った。オンシーズンの海水浴場なので、これからきっと人で混む。無人のうちに歩く。(この旅に「しおり」として携行してきた本の著者、パスカル・キニャールと小川美登里両氏がこの浜辺を訪れたのが、無人の時間だったからでもある)
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波打ち際を歩いてく。浜辺に乗りあげる海の水らは砂の傾斜を駆けのぼり、しかし重力に呼ばれてやがて海へと転げ戻る。戻っていく海水を追い越そうと、ひとつ上の層にまた別の海水が走り、海へ戻る力と浜をのぼろうとする力が互いにぶつかりあう。水と水が衝突し、ひとかたまりだった海水たちはその瞬間に、ばらばらの細かな粒子らに砕ける。散りながら混ざる音が集まって、浜辺の波の音になる。
波の音に耳を澄ませる。鼓膜を震わせる音がなにに由来しているのか、ついつい思いを馳せてしまう。波をもたらすなにものかを思ってしまう。そのせいで、波それ自体の音を聞くことがむつかしい。
りんごを見たことも触ったことも食べたこともないAIが「りんご」という言葉=記号を扱うようには、ものごとと接せられない。音をただの音として集中して聴くことはむつかしい。ぼくの体のうちとそとを曖昧に峻別する膜の震えは、膜の震えではなく、膜を震わせるなにものかの存在感として聞こえてくる。
足元に小さい巻貝がおり、より小さな巻貝を喰っている。いや、でかいほうはヤドカリかもしれない。でかい貝殻をつまんで持ち上げれば、そいつは小さな貝を手放し、そしてそいつ自身殻のなかに引っ込んでいくのだ。何回か繰り返して、それが捕食ではなくて、交尾なのだと気付く。いくつものペアに対して連続で、ものすごい興ざめな邪魔をして、し続けていたわけだ。
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ずいぶん汗ばんできたので切り上げて、宿に引き返し、バイクにまたがる。これもやはりパスカル・小川両氏を追うように、海堂神社にむかう。鯨のあごの骨が、鳥居のひとつとしてつきたっている。(この島は鯨漁の島でもある。)ご神体は石である。背の高いこの神社にのぼっていく狭い道を覆う植物の繁茂が著しい。自分の頭蓋骨の内側にびっしりセミが敷き詰められるようにひしめいていて、それぞれが全力で胴を震わせるイメージにとらわれる。それほどにセミがうるさい。
神社を降り、すれ違う島のおばあとにこやかに会釈をし、バイクにまたがる。1時間ほどかけて、予約した教会にむかう。むかう先は頭ヶ島(かしらがしま)といった。上五島とは別の島だが、橋があるのでバイクで行ける。島と島とにかかる橋をバイクで渡った。橋にさしかかる光景は劇的である。それまでの、蛇行も傾斜も激しい道は、両側もしくは片側から山に襲い掛かられていたのが、急に平たくまっすぐな、両側ともが海の道だ。交通量はとても少ない。橋のまんなかで平気でバイクをとめて、左右をぐるぐる見回してはしゃいだ。
1945年 8月9日 木曜
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頭ヶ島はじめ、五島列島は長崎や福岡からの疎開先だった。島に空襲は、あるにはあったけれども、おおむね、のんびりしていた。頭ヶ島天主堂そばで、「あの日」の島の様子を聞いてみた。長崎市に相当おおきな爆弾が落ちたのを、島からでも眺めることができたのだという。まぶしいきれいな光が遠くの陸地に刺さって、それをどこか他人事のように眺めていた、と。島には変わらずきれいな海、静かな海があって、じつにのんびりしたもんだった、と。
その表現は体に沁みついたものなのだろう。ひとひらも感慨の片鱗をちらつかせることなく「そう聞いてますけどね」と教えてくれる人は、当時にはまだ生まれていない。この話は、この人が年上世代から聞いてきた話だ。
ほんとうに「のんびりしていた」のだろうか。当時、あとになって、その光が、とんでもない被害をもたらしたことを聞き及んで、自分たちの幸運を後ろめたく感じた人もいたのではないか。「戦災の渦中にはいなかった自分ら」を卑下する意図の込められたワードチョイスで語られた語りが伝承されている可能性も考えられる。
1945年8月9日、木曜日、11時2分。
これも人から聞いた話。長崎市中心部の浦上と呼ばれた一帯は、周辺地域から軽んじられている場所だったとも聞いた。数百年にも及ぶ弾圧時代を経て、キリスト教信者たちは、世間的にははぐれ者であり少数者だからいじめてもよいやつらだ。そういういじわるな視線が、確かにうっすらあったようだ。苦しい歴史をくぐりぬけ、ようやく日本人でも教会に通えるようになった。浦上天主堂では、その日も礼拝が行われていた。急峻な坂をのぼり、さらに階段をのぼって、長崎の町を見晴るかす礼拝堂に、夏の昼の光が差した。原爆が落とされた。たった500メートル先に、原爆が落とされた。天主堂は瞬時に砕けた。
そのときの瓦礫の一部が、上五島に運ばれた。上五島、鯛ノ浦(たいのうら)の教会の鐘楼が、原爆で砕かれた浦上天主堂の煉瓦でつくられる。
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2024年 8月9日 金曜
旧 鯛ノ浦教会の鐘楼は、メンテナンス工事中だった。足場に囲まれ、全貌をみることはかなわない。見学を終え、再びバイクにまたがって、今度は若松島へわたる。ここでも島同士をつなぐ橋をわたる。急峻な山と鋭い湾に挟まれた港町はまるごと、自然から逃げ込んだ先にみつけた僅かな隠れ家のようだ。寝息のように穏やかであたたかな港町いっぱいに、「11時2分になったらサイレンを1分間鳴らします。黙祷をしましょう」と役場からの予告アナウンスが流れる。
2024年 8月10日 土曜
「昨日、9日、どうだったんですか?」
「どうってこともないですけど、お店はあけてましたし、人はきて、まあ観光の人も多くいらっしゃいますけど、町の景色はおなじですね。でもやっぱり、毎年、この日ばかりは、なんかちょっと緊張しますね。今日は8月9日だな、って、意識しますよね」
長崎にくるたびに顔を出す店屋さんのひとつで、長崎生まれ長崎育ちの店主さんに聞いた話。3年前、その店で花瓶を買った。原爆によってひしゃげてしまったガラス瓶を3Dスキャンして、それをもとに、長崎の土を用いて、郷土の焼き物である波佐見焼で制作された花瓶であった。
2024年8月10日、その花瓶の展覧会をみてから、さる有名なラーメン屋に行く。芸能人のサインがたくさん飾ってある。サインの字を読むのはむつかしいが、親切なことに、それが誰のサインなのか、印字して色紙に添えてある。「おいしかった!元気出た!」とコメントのよせられた色紙の右上に「三浦春馬さん」と印刷の字がある。次に来たカップル客が、その色紙に気が付いて、「あ」と言って、写真を撮る。お店あてに福山雅治から届いた歴代の年賀状らがみせびらかされている。
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8月15日
長崎のお盆の行事は「精霊流し」が有名だろうが、さだまさしの曲名としてその言葉を知った身としては混乱がある。このイベントを、勝手にすっかり、曲の調子のイメージでとらえていました。だまされた。よく聞くと、たしかに「精霊流しが華やかにはじまるのです」と歌ってもいる。この曲の暗い調子は、内容の重さを、精霊流しの華やかさと対比させるためのものなのでした。精霊流しはものすごく華やかでうるさい。お盆にやってきた死者たちを船にのせ、町中を駆け巡り、大量の爆竹を鳴らしまくる。
死者を乗せた船は海のむこう西方へ、極楽へ、浄土へ、死者の住む場所へむかう。死者は海ではなく、さらにそのむこうにいる。
精霊船の目指す「場所」は地球上に特定されうる定まった地帯ではない。イメージである。お盆の時期、普段よりも濃くなった死者たちの存在感の大部分を、イメージの世界に送り返す。死者はどんな場所にいるんだろう。
紀元前
有史以前の人類史の長さを思えば、人類という種にとっては、遊動生活こそ最も自然で、性にあっていたはず。別の生活様式<定住生活>へ移行した背景はきっと、外部環境のおおきな変化だろう。気候変動とか。それによって、強制的に、仕方なく、定住生活をせざるをえなくなったんじゃないのか。というのが國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』で指摘されていて、結局これは学問的に内容を確かめられる話ではないから批判も多いようだけれど、ストレスのない推察だなあとは思う。
定住の前の生活は、長い期間をかけて、いくつかの場所をツアーしていく様式だったろうと思う。季節などにあわせ、A→B→C→D→E→A→B… と、いくつかの場所をめぐる。
遊牧民はまさに、そのような生活を送る。モンゴルの遊牧民の、ゲルとかパオとか呼ばれるあのテントは、彼らにとって、どこに設営されても「同じ家」だ。物理的に同じ物体だから、という話ではない。もっと精神的な、同一性の話である。いや、なにが言いたいかって、「遊動」と「定住」が別の生活様式だからっつって、「家に住む」という発想自体はどちらの様式でもありえるだろうと思うのだ、なんとなく。
「空間」というと、「座標空間」なんて言い方ができるように、抽象的で、匿名的なものな感じがする。「場所」はもっと意味のこもった、具体的で特定的、なんなら愛憎さえ織り込まれるものな感じがする。ちょっとだけ引用しよう。
場所すなわち安全性であり、空間すなわち自由性である。つまり、われわれは場所に対しては愛着をもち、空間には憧れを抱いているのである。
生活様式が違えど、いくら放浪しようと、人はいつだって場所にいる。もしくは、その人が場所にはいられず、空間にいるとき、必ず「居場所のなさ」が悩みの種になるだろう。疎外感、不安感、実感のなさがさみしい。
個人にとっての場所の話をするなら、「居場所のなさ」のような、ナイーブな問題<気持ちの問題>にはいりこむけれど、もっとおおざっぱに、人類にとっての場所の話をするなら、即物的に語れることがある。人間が立ち入った場所は、植生が変わるからだ。
人間が暮らすと、周囲には雑草と呼ばれるものが生えてくる。遊動ツアーの経路がそれなりに決まっているなら、雑草の生息域も固定化する。人の生活の中心圏域を「人里」と呼んで、雑草の場所を「里山」と呼ぶ。人里と里山は、(個人にとってはどうであれ)人間にとっては、「空間」ではなく「場所」といえる。
犬や猫じゃなくて、タヌキやキツネが人を化かす。牛や馬はおとなしく、喋ったりいたずらをするならサルやクマなのだ。「物語」は人里ではなく、里山でよく採れる。
おばけや妖精も雑草みたいなものだ。里山で採れる。人里のなかでも油断すれば雑草が生えるように、人の生活のなかについ生まれた余白からは妖怪が出没する。なら幽霊はどこで採れるだろう。幽霊は死者の影である。(「祖先の精霊」などとは違う)ゆかりのある事物についてまわる、個人の存在感である。
われわれが、言葉に意味があると思ってるから、言葉が意味を持てる。これは「知らない言語に意味を見いだせない」という話ではない。「われわれは、言語がなにかを語れると思っている」という話である。(けどこんなふうに、やはり言葉によって、「言葉に意味がない可能性」というインデックスを提案することはできる。)思うと不思議なことです。幽霊が合理的な存在でないのと同様に、われわれや、われわれの生も合理的なものではない。言葉に意味があるのとまったく同じ意味で、幽霊は存在している。なぜならわれわれが場所に住んでいるからだ。