神は我なり。 されど我は我にして、神には非ず。 神、我となりて我を救い給う。 これ耶蘇基督降誕の意義なり。
学問を下手にすれば学問の縄でしばられることになる。たいがいの学問は学問の縄で自己をしばっている。(中略)一般の学問はたいがい便利のためにするので、それ以上の何ものでもないということを知っておくのが『歎異抄』の学問である。 曽我量深 『歎異抄聴記』より
理屈抜きに、ただ聞くということほど、難しいことはない。 たとえば、歎異抄。 AIが拾ってくるような内容で歎異抄がわかったような気になるとしたら、それは間違った読み方。 歎異抄で親鸞聖人がわかったと思ったら、それは嘘。 自身の肌感、体感を伴ってこそ了解。
歎異抄講話、廣瀬に、「曽我量深先生の話は難しい」とあり、深くうなづく。そうなんです、難解。なかなか何をおっしゃりたいのかつかみにくい。うんうん唸りながらも、ハッとさせられる言葉に出会う。だから、読むのがやめられなくなる。
きょうの一言。 仕事ではロンリとか情報にまみれているからこそ、仏法は有難い。 ナンマンダブ。 #仏教 #曽我量深