濁浪清風 第61回「宿業」について⑨
われらの経験の一切を黙って引き受けていくものを、「阿頼耶識(あらやしき)」と名づけている。一切の経験とは、三界〈さんがい〉(欲界〈よっかい〉・色界〈しきかい〉・無色界〈むしきかい〉)の全経験、すなわち迷妄(めいもう)の晴れない状態での生命現象の一切である。たとえそれが美しい状態、例えば美的経験(音楽や美術など)であっても、抽象的な数学理論を考えるような経験であっても、三界の中に包まれる。仏陀・釈尊が、われらの生存に起こる一切の経験の本質を「一切皆苦」と見抜かれたのは、状況がどうであれ、経験を覆(おお)うような意識の深層の暗さに気づかれたからである。そこから「三界を超えよ」という言葉が出てくるのである。つまり、われらの経験の範囲(三界の内)には苦悩を超える手だてはないというのである。そういうことからすると、宿業(しゅくごう)経験を蓄積する阿頼耶識には、三界を超える可能性はまったくないというべきであろう。
一方、法蔵菩薩とは一切の衆生を救済したいという大悲の要求の主体である。その救済は、浄土を通しながら、一切衆生を真如法性(しんにょほっしょう)の世界に導こうとするのである。つまり、三界を出ることができない衆生に、三界を超えた世界を恵もうというのである。この願心は、したがって先の三界の経験界を超えているのである。この超えられない限界を超えさせようという矛盾を承知のうえで、なぜ曽我量深は「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」と言うのであろうか。
曽我量深はこういう類(たぐい)のテーゼを提起するとき、必ずこの逆は成り立たないということを付言する。法蔵菩薩は阿頼耶識であるが、阿頼耶識は絶対に法蔵菩薩ではないと言うのである。妄念の経験からは、決して大悲願心は生まれてこない。人間の世界には、小慈小悲(しょうじしょうひ)がふさわしい。いな、親鸞は「小慈小悲もなき身にて」とすら言っている。大慈大悲(だいじだいひ)は、三界を超えたところからのみ発起(ほっき)しうる。有限の条件を問わないのであるから。この大悲を実践的に表現する名告(なの)りが、法蔵菩薩である。絶対に超えられない深淵(しんえん)を、必ずや超えさせようとする願心であるから、「兆載永劫(ちょうさいようごう)」に倦(う)むことなくはたらこうと誓うわけである。
こういう願心との感応は、深い苦悩のどん底での、一筋の光との値遇(ちぐう)のごときものなのではないか。その値遇の必然は、兆載永劫のご苦労から来るのである。この苦労は、救われる可能性のない三界の妄念の生活をも支えて、気づかれるまで待ち続けている願心のなすところである。実は、宿業を貫いてこの願心が歩み続けているというご苦労がないなら、われら三界の衆生は、決してこの三界を超えようとさえしないのである。宿業の蓄積場こそは、法蔵願心が菩提心を燃焼させる大悲の場所でなければならないのである。すなわち無限大悲は、いかなる愚かで罪業深重(ざいごうじんじゅう)の衆生(しゅじょう)たりとも、その大悲のはたらきの場所にするのである。だから、この法蔵願心は、阿頼耶識とならねばならないのである。
(2008年6月1日)