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濁浪清風 第60回「宿業」について⑧

 われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについて、唯識(ゆいしき)思想においては、われらの意識の深層に「阿頼耶識(あらやしき)」と名づける意識を見いだし、その阿頼耶識に経験の結果が蓄積されて、新しい経験の可能根拠となっていると考えている。行為や経験が起こると、その影響(熏習〈くんじゅう〉)が次の行為・経験の可能性に何らかの変更をもたらすのである。その動き行く可能性の蓄積の場所を、阿頼耶識と名づけるわけである。阿頼耶識は、その可能性(種子〈しゅうじ〉)と身体・環境を持続的に感覚する用(はたら)きである、といえよう。

 一人の人間には、その人独自の身体と、その人だけの一回限りの人生が与えられる。それを別業(べつごう)の所感という。その人独自の業の蓄積が、その人独自の人生を引いてくるというのである。それを「業報(ごうほう)」というのである。その業報を引き受けている場所が阿頼耶識なのである。すなわち、後戻(あともど)りも繰り返すことも、取り替えもきかないこの一回限りの人生を、責任をもって生きている主体が、阿頼耶識なのである。そういう実存の責任とは、いわゆる行為の責任としての倫理的責任ではない。誰にも取り替えられない一個の実存の責任感である。つまり、存在の責任感である。

 その責任感は、一切衆生を荷負(かふ)して永劫(えいごう)に歩み続けようと発願(ほつがん)する法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の意味と重なる。この法蔵の志願は、どのような苦悩の実存であろうとも、逃げようとすることなく黙って担(にな)って生きる阿頼耶識と共通の意味があると感得したのが、曽我量深(そがりょうじん)であった。「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」というテーゼは、業報の場所たる阿頼耶識を、迷いの人生の主体であるのみならず、その苦悩の実存を担う志願という意味もあると感得したということであろう。われらの表層の意識は、そのときどきの状況を映して移ろいゆくが、その経験の全体をいつも背負って生きているものは、決して変わることのない一個の実存の主体である。その主体が自己自身を真に自覚することは、困難である。深層意識なるが故である。その主体に気づこうとする意欲が、如来回向(にょらいえこう)の求道心なのだということなのではないか。だから、その求道心こそ、深みの阿頼耶識なのではないか、というのであろう。

(2008年5月1日)