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濁浪清風 第58回「宿業」について⑥

 宿業(しゅくごう)が「本能」であるという曽我量深先生の言葉を考察している。この本能とは、生命維持のために与えられている生得の能力ということが、もとの意味ではあるが、それを宗教心の問題に応用しようというのである。特に、「宿業」という言葉に当てるということには、個体の存在にとって自己の存在の根源にすでに与えられている生得的な性質が共通するということがある。

 しかしこの対応に、初めちょっと違和感を感ずるのは、本能には生命にとってのいわば前向きな能力という意味が強く感じられるのに、「宿業」というと、自己を束縛したり、自己に運命的に乗っていて生存を制約するような意味が強く感じられるからであろう。

 われらの実存は、よく考えてみれば、この運命的な制約に縛られているということのほかには、決してあり得ないのではないか。この決定的な制約を、自己の存在を成立させる根本限定として自覚的に引き受けてこそ、一回限りのこの実存を納得できるのではないか。それを存在の使命として呼びかけようとするものが、「法蔵願心(ほうぞうがんしん)」の意味だと信知するところに、宿業を宗教的な本能の出所だとする肯(うなず)きがあると思う。

 「業報(ごうほう)」という言葉は、重苦しい。この言葉を吐(は)かざるを得ないのは、どうにもやりきれないつらい事情にまつわられている場合だからであろう。しかし、どうにもならないということは実存の事実であって、どうにかなるのは、その事実を受け止めたうえでの、いわば上層部分とでも言うべきところなのである。確かに、人間同士の努力や個人の真剣な精進でどうにかなる部分もある。しかし、それでも業報としか言えない限定を離れることはできない。そういう重くて暗い存在の限定を自己に担(にな)おうという志願が、「法蔵願心」にはあるのではないか。「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」を、その存在の条件の云何(いかん)を問わず引き受けようということ、そしてなかでも罪業深重(ざいごうじんじゅう)の衆生を救い遂げなければ、自己も成仏できないということには、どのような暗い運命をも引き受けて生きてはたらこうという志願に通ずるものがあるということなのではなかろうか。

(2008年3月1日)