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濁浪清風 第52回「場について」㉒

 「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、というのであって、与えられるためには、必要不可欠の条件がある。それは、衆生が作り出すことを要求するのではなく、衆生自身の有限であることの徹底的な自覚、これが要求されているのである。無限のなかにあって、有限であることを自覚できていない、という構造、これを『歎異抄』は「自力作善(さぜん)のひと」(第3条、『真宗聖典』627頁)というのであるが、この構造を破って悪人でしかないという自覚、あるいはまったく無力であり、全面的に本願他力のなかにあるという自覚、この自覚において、「しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』544頁)という心眼を恵まれるのである。

 だから、浄土を場として自覚するとは、いわば見えざる無限の大用(だいゆう)、これは自分の意識としては知り得ないのであるが、向こうからは無碍(むげ)にはたらき続けている、このことを信知することなのである。これを、「正信偈」には「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう)」(『真宗聖典』207頁)というのである。大悲のはたらきたる本願は、浄土という広大な環境となって衆生を支えようとする。それは『浄土論』の主功徳(しゅくどく)にいわれるように、阿弥陀法王の善住持の力であり、無限なる大悲のはたらきであるから、それを信知する身に、十分に不朽薬のごとき力を与えて信心の身を守るというのである。

 この大悲のはたらきたる場所を、本願力から切り離して、いのちの向こうに表象した場を「方便化身土」というのではないか。だから、「求めて、得られない」ものなのである。「見ることができない」という事実から、自己の有限の自覚を徹底せずに、「得られない」から、死んだ後にきっとあるに相違ないと、「邪定(じゃじょう)」(よこしまに決める)か、「不定(ふじょう)」、つまり決めるわけにもいかずに不安なままに求め続けるか、ということになるのであろう。それに対する「無量光明土」は、直接に見ることができたというような神秘体験ではない。たすかるべき必然性を自己の能力に頼ることを捨てて、大自然の治癒力のごとき大悲願力に帰託するなら、本願力の必然として、向こうからはたらき続け、愚(おろ)かなるわれらにも摂取の光明として感受されてくるものだというのであろう。

(2007年9月1日)