濁浪清風 第42回「場について」⑫
「回向(えこう)」の教学とは、親鸞の思想の中心を押さえる言葉である。法然の教学を「選択(せんじゃく)」の教学というのに対して言われることもある。罪深く愚かな衆生を救うための方法や条件を、「五劫(ごこう)に思惟(しゆい)」したという法蔵菩薩の物語の意味を、「称名(しょうみょう)念仏」を選び取るためのご苦労である、と自覚したのが法然である。「選択本願の念仏」という言葉が、法然の信念を貫く柱なのである。それに対して、親鸞の信念の特質を、「回向」にあるとするのは、どういうことか。
「如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳(おんどく)」という言葉がある。「大悲」という言葉を、自分を照らし出す強烈なスポットライトのようにいただいたのが、親鸞ではなかったかと思う。その「大悲」とは、「大いなる悲しみ」ではないか、と感受したのが曽我量深(そが りょうじん・1875~1971)であった。曽我によれば、慈悲は単に上のほうから綱を降ろしてたすけ上げようとする慈悲(じひ)よりも、共に地獄の底に身をおいて同じ痛みを同感することによって、黒暗に沈む衆生の一切をそのまま摂(おさ)め取らずにはおかない悲しみとなるのだ、それが「大悲」なのだというのである。
慈悲を三段階に分ける考え方がある。『智度論(ちどろん)』を受けて、『浄土論註』で曇鸞(どんらん)が説いているものである。大悲・中悲・小悲、あるいは有縁(うえん)の慈悲・法縁(ほうえん)の慈悲・無縁(むえん)の慈悲ともいう。「有縁」とは、因縁があるということであり、結びつく条件があるということでもある。近い因縁にのみ憐憫(れんびん)の情(じょう)をもよおすのだから、小悲という。それに対する中悲ということがわかりにくいのだが、「法縁」と言われるなら、理性的とか合理的とか合法則的とかという範囲で考えられることなのかもしれない。
そして「無縁」とは、人間にとってはいかなる意味においても縁がない、結びつくべき手がかりがないということである。まったく救うべき手だてのない地獄の衆生にもよおすものと言ってもよいかもしれない。そこにもよおす憐憫を、「如来の慈悲」といただくのだというのである。
(2006年11月)