延徳3年(1491)7月1日は足利茶々丸が家督を狙う義弟と義母を殺害し堀越公方の地位を手中にした日。享徳の乱で鎌倉公方は古河公方と茶々丸の父・政知の堀越公方の2人に別れていた。政知亡き後の堀越公方家中の混乱に乗じた伊勢宗瑞(北条早雲)による伊豆侵攻により堀越公方は2代で途絶えた。
永正16年(1519)8月15日は伊豆韮山城で北条早雲(伊勢宗瑞)が死去した日。戦国大名の先駆けで関東の覇者北条五代の初代。戦国家訓の早雲寺殿廿一箇条では早寝早起きや質素倹約、嘘をつかないなどと共に友はよく選ぶこととある。戦国の世に限らず交友を持つ人の選び方は考えないとですね。
延徳3年(1491)7月1日は足利茶々丸が家督を狙う義弟と義母を殺害し堀越公方の地位を手中にした日。享徳の乱で鎌倉公方は古河公方と堀越公方の2人に別れたんですね。で、この堀越公方家中の混乱が、後の伊勢宗瑞(北条早雲)による伊豆侵攻の原因となり北条五代100年が始まるという面白さ。
永正16年(1519)8月15日は伊豆韮山城で北条早雲(伊勢宗瑞)が死去した日。姉の嫁ぎ先の今川義忠が守護を務めた駿河へ下向し堀越公方の家督争いに乗じて伊豆へ討入った。相模の小田原城を奪取すると関東南部の制圧へ乗り出した。戦国大名の先駆けといわれ関東に覇を唱えた北条五代の初代。
天文10年(1541)7月19日は後北条氏の2代目である北条氏綱が死去した日。跡継ぎの氏康に5か条の遺訓を残した。勝って兜の緒を締めよの由来はこの遺訓から。戦国乱世で敢えて1つ目は義の大切さを説く。義に背き国を取っても後ろ指さされ人の道を外れ利を得た者は天罰から逃れられぬと。