Pensée(随時更新)2024/10/16

1 信仰の対象性だとか不可視の愛だとかそういうものに憧れたりもしますが、代表的なのはアルベルトゥス・マグヌスです。「被造物についての大全」が有名ですが、自然の観察に基づく自然学であり、そこには「視覚」の領域の影響しか及ばないです。然るに、踏み入ってはならないところに踏み入るには目を棄てる必要があります。見ようとすれば見える。見ようとしなければ見れないっていうそういう単純な話ではあります。

2「見ようとしてはならない」と思う彼がいる一方で「見なければならない」と思う彼もいる。しかし、見るという行為は残酷な一方で、救いでもある。彼はその両義性に引き裂かれる。その両義性に引き裂かれた末の彼方に直面した現実(0)はゆるぎなき、永遠性みたいなところがあるので、認めることは許し難い。つまり、直立したもの。彼にとって、生死の歪みは関係ない、彼にとって、生死の概念は全く関係ない。彼にとって、それは分かりきってはいますが、何もすべきことはないことは分かる。それ故に、不可視が見えてないことに気づくわけです。だから、本来直面している「現実」(0)に気づかないという図式が成立する。

3 そうであるから、イデアとか、そういう概念生み出しちゃうんです。何故なら、一定の現象を説明出来ないものを諸概念に置き換えることで、一応の説得力はありますので。ですが、この行為は、視ること、つまり、現実(0)からの逃避です。このあたりのことは、論理で説明しようと思えばすべて可能です。「魂の不滅論」でも読めばいいんじゃないでしょうか。その論理で説明不可能なことを説明しようとしてるという矛盾と闘っているだけです。

4 これらの空論の概念、現実(0)を曲解する詭弁は、すべて虚偽です。そもそも、我々は生きているとされている現実(1)の成り立ちを考えると誰も証明出来ない、だから、認識の錯誤の発端にすら誰もほぼ気づいていない。デカルト以後はそういった論理性をさらに突き詰めて、科学がそのどんな最高度の段階を想定しようとも何も証明出来ないと彼は今まで考えていた。だから、これらの概念はすべて馬鹿げているとずっと思っていた。かといってデカルト以前も学問は教会と密接に関わっていたわけだし、これも「権威」は「権威」です。

5 「不可視」を見るっていうとまたエル・グレコとかの絵画の領域になってもきます。あの、火花、不思議ですよね。あれは作為的な「出来事」のようにも思えます。あの火花を見てはならないとロトの母に言うわけだけれど、それは現実(0)のことだと思いますね。だからロトの母は死んだ。あとは、見者の手紙とか、ランボー持ち出しちゃったりするから、彼は知ってても何にも出来ないんです。自分の領域で可能な限りを証明するしかないということになる。これは意識外のことです。だから、考えて書いたものなんて、いかに最高位のものを想定しようとも、一定の仮説に基づく空想上の論理が根拠になっている以上、ドゥンス・スコトゥスとか偽ディオニシオス・アレオパギテスとかが一番想定に基づいた中では凄いものになってくる。この知性になんて到底太刀打ちできないことはあまりにも分かりきってる。何百年、何千年そそいだ?どれだけの論理矛盾を紐解いた?それ故に、我々は何も証明出来ていないとさえも言える。

6 大気には火が迸ってるでしょう。それで我々は真っ逆さまに地上に降り立った。彼らはどれだけ情熱を注いでも、原理的に不可能なことをやろうとしてたわけですよ。すべて空想上の仮説に基づいているから、確立されていないものを出発点としている。代表的なのはロジャーベーコンとかは光の実験とかの領域になりますが。だから、言葉と音と現実(1)を無限に近い回数で、反響するしかないわけです。

7 今後、彼は誰であれ、敵対する誰かであっても、彼はもう二度と助けを求めたりだとかしないためにも、世界はまだ生まれてさえいないのだから。だから現実的な手段で闘うということと、奇跡を望むという方法があるにはあります。これは突如啓示として受け取るか、もともとあるものを提示するにすぎないから、その明確な手段をもつためには両方やらなければならないということも出来ます。

8 法王、ブッタ、ソビエト、議会、独裁者、宗教、イデオロギー、法、制度、秩序、自然科学、ヨーガ、占星術、哲学etcを通しても、我々の正当な存在理由なんぞ、誰ひとりとして証明出来なかったわけですから。すべては創世記から、認識の錯誤の発端からこの事件は始まっていると考えられ、現実(1)を八つ裂きにするか、照明するかだ。彼は狂ってなんぞいない。真実を目撃しているだけだ。

9 アルトーについて思うこと。存在は名づけることのできないものすべてからくるもの、混沌というもの、それが数千、数万の渦となって押し寄せてくる だからそれを告発するしかなかった それ故に ひとつの生を再構築することしか出来なかった。彼は破門されよ すべて彼の惨めな罪から生じたことであり、許しを乞いてはならない 彼は堕落した。

10 0と1の2乗法がすべてを壊したのだと彼は思ったわけです。0と1が違うって言いだしたのは誰なのか、これは我々の存在を証明する前に何者かが植えつけられたものともいえるんじゃなかろうか。これは生物が存在し続けるために、構造上、当たり前のものとして、認識されています。いささか陰謀論じみていることは否めないです。だから方程式にもなると論理矛盾が発生し、狂ってくるんです。8X=16なら、Xは2となる。本来はXはいらないものです。記号も方程式も数字も異なるものだ。果物って一括りにするのと一緒のことです。人間を一括りにするのと一緒のことです。そうであるならば、生物と一括りにして何が悪いのか。動物と人間は一括りです。すべて0と1を生み出した何者かがこの我々が生きているとされている現実(1)を生み出したという仮説がここで成立します。

11 そうであるから、片方の現実(0)ともう片方の現実(1)の照明が確実に出来ると彼は言っています。これが起源の錯誤の発端の事件の相対化現象です。こんなことは当たり前のことで、この不完全な現実が(1)とするならば、その対立概念としての現実の(0)というものは確実にあるわけです。その0が満たされているものなのか、空白なのか、いずれにせよ、仮説として成立は出来るし、どういうものなのか、想定は出来ます。

12 だから、この現実(0)に主体はない。1を告発しようとも攻撃しようとも1は永遠に消えない。現実(1)はすべての存在者が蔓延る要因ともなった現実でもあるし、歴史でもあるし、出来事でもあるし、主体でもあるからだ。現実(1)を証明しようとすることを試みても無意味で、これらの一定の現実の現象は弁証法でも唯物論でも、論理でも、形式を一定条件で成立させ、当て嵌めれば、誰でも説明出来ることだとも同時に言えます。

13 XとYが交わるときは現実(0)だ。だったらXとY記号はいらないことになります。極論を言えば、「0だけでいいか」、「1だけでいいか」ということになります。言い換えると、「存在するか」、「存在しないか」ということです。あるいは「在る」ことを認めるか、「在る」ことを認めないかとも言えます。本来は「0」だけでいいわけと彼は思っています。だから、「0」が本来の現実で、真理です。1は名前も生み出す、区別します、優劣思想を植えつけます、文化を作ります、歴史を作ります、無暗に増殖します、形式や制度、法やイデオロギーを生み出します。だから1はすべて虚構です。

14 だから彼は政治にも宗教にも加担したくないんです。どっちも1です。正しいか、正しくないか、物事の単純な見方でしかないし、時代性とか風潮とか天災とかイデオロギーや集団心理や何にでも影響されて、ひっくり返りますからね。1が1に変わっても無意味です。でも、1が0に変わる可能性はあるかもしれないです。その可能性が芸術だとか詩だとか表現だとかそういう単純な言葉でも回収されたくないんです。それは意味とか形式になりますので。彼は「0」を目撃していますよってことをずっと一貫して主張しており、それを証明する手段は別に何でもいいわけです。それは本当に難解だけれども、ある時に偶然に見えてくる感じもするし、もう既に知っているという感じもします。ただ、そのことに明確に気づいてしまうと、間違いなく今、認識されている(1)の現実にはいないでしょうね。それだけは分かります。現実(0)と現実(1)は交わることは決してあり得ないです。

15 生の反対概念が死だとして、善の反対概念が悪だとして、現実の反対概念は夢ではないです。これは間違いなくそうです。現実(1)があらゆる現象が複雑に絡み合ってると仮定するなら、それは有限であるから、原理的には1となります。その1から派生して複雑化したものが、いま認識している世界だとか社会だとか言い方は何でもいいですけどそういうものに当て嵌まります。そして、その反対概念は間違いなく現実(0)です。現実(0)は派生しません。何も生み出しません。

16 現実の反対概念を生み出すためにフロイトの無意識だとかの影響、共産主義化に影響されて、ブルトンが第三インターナショナルとの統合やシュルレアリストは自動手記とかそういう方向性にいくわけですが、それは偶然性の中にしかないと考えたのがヴァシェで、それに真っ向から反対したのがアルトーです。

17 だから現実(1)を派生させると、原理的には、記号が無限に増えますから、凄く複雑化はされますけど、原理的には原始と変わりはないですね。それが予見されるのが、彼が以前に書いた論考である、「光学的革命論」や「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪(スペクタクルの社会及びスペクタクルの社会への注解の改題」だったわけですが、現実(1)がまやかしにすぎず、現実(0)は変わらずそこにずっと在り続けているってことを彼は言いたかったわけです。ただ、この当時は複雑化されたこれらの現象を根こそぎ駆逐させ、本来の現実(0)を奪還したかったんですが、徒労に終わりました。

18 ここで主題に戻りますが、特異的な生の転回点というものがあることは分かっています。それは体験主義や、実証でしか生み出されないわけです。ただ、それがどういう形で証明されるのかは分からないです。でも、あることは事実です。イデアではない、ユートピアでもない、始まりでも終わりでもないです。だから、アルトーは存在である現実(1)を呪いの要塞だとか魔術的ネットワークだといって、告発し続けました。「器官なき身体」っていうのは云わば現実(0)のことです。要は臓器とかそういうもろもろの器官がなくても、生は変わらずあるし、生きれるということであるから、ただそこに大きな容器というものだけがあります。これは現実(0)を覆うもの、機能させるものとしての容器=身体です。これは壮絶な肉体の苦しみから気づいたのだと思います。だから、アルトーは現実(0)を目撃しています。別にダヴィンチは好きではないですけど、彼の仕事が他人の言葉や書物や教育、大学よりも経験から引き出されるべきであることを何よりもこの身が知っています。あやふやな判断によれば、書物を引用し、過去の識者を引用し、おのが知識のごとく断罪すれば、彼を非難出来ると信じています。創作者たる彼を非難するならば、軽蔑するならば、他人の作品のただの暗唱家にすぎないものこそ、遥かに非難されても良さそうではないですか。権威や文献を引いて、論ずるものは才能を用いるにあらず、ただ記憶を用いているだけです。だから彼は注をほぼ書かないのです、そして注を書いたとしてもそれは補語や推察の領域に留まります。無論、彼は学者ではないので、そもそも、文献の引用も、ましてや歴史的背景、人物背景、状況説明なんぞ、まるで無意味なので、必要がないです。

19 話は戻りますが、その憎き現実(1)を生み出したのはキリストだとアルトーは妄信していて、だからあれほど壮絶な罵詈雑言をキリストに浴びせかけたわけです。そしてゴルゴダの丘で磔にされたのは私だと言います。ただ、アルトーは西暦からその現実(1)は派生しているって言っていますが、彼は紀元前、つまり人間の始まりからだと思っています。つまり、集団を形成したときからだと思います。そこで、人間たちは歩行することを始め、「生きること」を始めてしまったからです。アルトーの後期の作品は人間が書いたものじゃないってことだけは分かりそうなものですが。理性や学問や論理の領域で分かるような代物ではないです。何故なら、絶対に考えて書いてないし、そもそもその証明を、知性という方向性で探求するのは無理があります。我々の「生」とアルトーの「生」はあまりにも遠いです。ひとつずつ目の前のことをやっていけば、多分だけど、そのうち確実に見えると思います。それがどういう形でやってくるかは分からないです。大学にいる人間を批判する気はないですが、現実(0)に気づいた人間ではないものの翻訳を、現実(1)に生きていると錯覚している人間が彼らの領域で認識している「言葉」という記号を無自覚に使っているということに気づくわけがないです、そして、その論理矛盾に気づかずにやってきた人間が出来るわけがないです。アルトーも他人の言葉なんて決して信用しませんでした、だから後期になるとほぼ引用することなんてないですし、精神は物質によって汚染された薄汚れたものだと言うわけです、これは明確な何者かの人間ではない意志が介在しているからです。

20 紀元前の発端の認識の錯誤の事件である現実(1)を本来の現実(0)に変えれば、人間たちの内的変化が確実に起こることは仮説ですが、容易に想像は出来ます。だから、テキストにするにせよ、何にするにせよ、照明しなければいけないわけです。政治は1から1です。宗教も1から1です。哲学も1から1です。1から0を証明するのに何か手段がないのかずっと足掻いているうちにこの年齢になってしまったことを彼は悔やんでいます。現実(1)を現実(0)にするには、考えないこと、しかし、それを放棄しないこと、体験の渦中に飛び込むこと、苦痛を味わうと強度を伴なって突如表出するというものじゃないでしょうか。ちょっと、神秘主義的要素が強いんですけど、アルトーが「存在の新たなる啓示」を書いた時期も、この不可思議な一定の証明出来ない現実(0)の現象を、オカルティズムに求めたというのには矛盾はありません。ですが、その方法はすぐに誤っていることに気づいたわけです。

21 現実(0)というのは何もないという状態のことではないです。相殺されたということでもないです。むしろあるがままの「本質」や「光景」そのものを目撃することです。満たされているとも違います。欠落がない状態や状況と言ってしまえばそれまでですが、それを証明出来るならば、彼は既にこの現実(1)にはいないでしょう。

22 半神の自我を棄て去ったものが、彼に遺した伝言は、彼に在ることを強制させられたと同時に消えることも禁じました、実は彼は目撃し続けているけれど、それが分かってしまうと彼は生きれない。次元のない容器の中の無時間の中の空間性と言えばいいのでしょうか。本当にこれは幾ら考えても分からないです。実感だけがあります。

23 何もないということが分かると人間は死んでしまう。意味が分からないと人間は死んでしまいます。何もないという概念はニヒリズムではないです。むしろ空間性に関わることです。だから、生きていることが恐ろしくなります。でも、見ずにはいられなくなります、体験せずにはいられなくなります、対象のない憑依そのもののこととも言えますが、そのことを無意識に人々は避けています。

24 徹底的な強度がそこに現れてきます。自然と。意識するものではないです。生み出すものではないです。無意識とも違います。実はずっと前からそこにはあって、気づくことも諦めることもやめ、見ることに同意せざるを得ないが、彼はそれを人に伝える術をもたないわけです。分からないということだけが分かります。それに気づいたところでどうしようもないので、彼は目を棄てることになります。それ故に、時間と空間と実体を変え続けることになるが、意識してしまった瞬間また殺され続けます。殺され続けているが故に、また見ることを強制させられます。その繰り返し、その循環で生きているのです。不可能を要求することをやめてほしいと願いますが、彼はもう消え失せようと決心します。すべてやり尽くされたわけです。机上の空論をでっちあげることは可能ですが、それもすべて「意味」に回収されてしまいます。

25 何も救済される方法がないって随分前から気づいています。15年前から。この15年は一瞬の出来事だという気がします。いっそのことあのまま死んでしまえば良かったのです。何故死ななかったのか、思い出せないけど、死ぬことすら拒絶されたのは何となく覚えています。3日間意識を彼は失いました。そのときに「在ること」を強制されたわけです。その実感だけがずっと根付いてるのです。肌がとても冷たくて、自分で首ねっこをおさえても、血管が機能している気がしなくて。身体全体が心臓にでもなったかのようにゆっくりと脈動を打つような。その後、彼は文章を書き始めたわけです。あそこでやめるべきだったと今は思っています。もう引き返せないです。でも、延命するにはそれしか手段がなかったわけです。だから、もう一度死ななくてはならないのではないかと思っているわけです。

26 彼は活動を続ければ、その先のヴィジョンが突如見えてくるはずだとは妄信しています。彼はまだ諦めてはいないです。そもそも幸福を望んでいることはあまりにも愚かです。救われていいはずがないです。これから先も驚くような地獄があると考えたほうがいいです。いつでも想定を超えてきたじゃないか。だから、この先も想定を超えてくると思って間違いないです。

27 かつて一度も死など存在したことはなかったのです。死者たちの現実においてあるものは、唯一、ひとつの状態から別の状態へと移り変わるということです。然るにキリストなんぞはいたにせよ、きっかけを与えたにすぎないです。すべての宗教や存在の価値を否定するのはここに由来します。見えない点と点それが糸で結ばれている、その糸は無数にあります。それを照らすものがあり得ると仮定するならば、それはすべての原理原則、対象関係を浮き彫りにする可能性があります。それを照らすものは対極としての現実(0)のことです。現実(1)が充足されていないものであるとするならば、その対極としての現実(0)はすべてを満たすものとされるか、或いは空白とされます。現実(1)が不完全であるから、その絶対値として、対極概念の現実(0)というものがあります。

28 エンペドクレスは火、水、風、土の四大元素を提起したが、これは誤りです。これらも現実(1)の派生物にすぎないです。エートルやニュートリノなどの議論がしばしばされているのを彼は少し知っていますが、これら4つを発生させた源のことを言っています。それは現実(0)から到来したものです。宗教は所詮人間が造り出したものにすぎないですから、そこにある道徳、美徳、禁忌、真理は、人間たちに植えつけたものですから、ある種の強迫観念に陥ってるにすぎないです。詩のほうが科学よりまだ全然早いですが、ある地点で追いつくと思います。それが追いついたときに、この現実(1)を覆う容器は破壊されます。その時に、人類全体の記憶が失われると思います。価値と無価値、差異、同一、すべてごちゃまぜになって、「自分」が「自分」であると誰も宣言出来なくなります。すべての死者たちは不滅であるから、このことは魂のことを言っているわけでもないですし、輪廻転生のことを言っているわけでもないです。極めて現実的な話です。だから、見たり、聞こえたりするわけですけど、それらはこの現実(0)には決して介入はしてこないわけです。何故なら、不満も欠落もないからです。現実(0)とは本当のものであるが、唯一私たちはそれを見ることが出来ないものの総体のことです。或いは一個の身体のことです。或いは一個の空間のことです。或いは一個の光景のことです。

29 その見ることが出来ない状態のことをむしろ我々は感謝しなければならないです。ひとつの粒子には未確認のエネルギーがあることが確認されています。それは一体何なのか不思議に思います。これはかつて現実(0)にいたことの徴や痕跡のことであり、この発見をすると恐らく、人間たちは恐怖に耐えられなくなります。現実(1)ではほとんどの存在たちが気づいてない病気があります。このことは世界の不条理性、複雑化された現象と似ています。悪意、貧困、嫉妬、病気、恐ろしい目に遭わせるものとある意味では同義ですが、この病気は完全に治癒することはないですが、その見方(認識)の変容によって複雑なものでなく、もっと単純化出来るという仮説は成立します。つまり、危険でないものに出来るということです。それが限界だと思います。そのことが「見る」という行為のことです。よって、「主体」なんかどこにもないですし、それは今の現実(1)にいる人間の状態では見つけることは出来ないです。だから、見えるものしか信じようとしないわけです。現実(1)で、何か悲しみの衝動や物理的な痛みが起こると、現実(0)では、どんどん貴重なものが失われようとしていますが、それを何らかのものが受容し、平穏を保つことも出来なくはないです。これが対極化した二次構造で、常に在り続けることしか出来ないわけですから、在り続けることによって、欠損してしまうのです。感情や思考のせいで、どんどん薄汚くなっていき、自分自身を治療するためには、完全無為の孤独の中にだけあるとも思いますが、「出来事」は、ある時、ある瞬間に飛来します。これは世界の成り立ちとは関係がないです。

30 善にせよ、悪にせよ、いかなる行動も破壊的な結果に導くと思われます。何故なら、それは同一のものとしてある意味では語られるし、ある側面から見れば、善であり、ある側面から見れば、悪であるからです。粒子力学で言えば、人間が観測すると、それまで不定期だった軌道が、膠着すると言われています、人間の意志が物質に作用するということは、これは見ている時は観測可能で、見ていない時は観測不可能ということになります。これは前者は現実(1)で、後者は現実(0)と言うことも可能かと思われます。

31 光子を2分化すると、どんなに距離が離れてても、連動作用を持つと言われています。肉体は要は牢獄みたいなものでそこに閉じ込められたわけです。アウグスティヌスの魂の不死論(最もそれには少々懐疑的ですし、理解しているとは言い難いです)が正しいとするならば、肉体が機能停止した後に、粒子と同様に、意志から離れ、本来の自由を取り戻すのかもしれないという仮説も成立し得ます。

32 すべては苦痛から生み出されることは明白でしょう。やはり、現実(1)と現実(0)の解明は可能です。苦痛から生じ、問題提起にあたり、書き殴り、実践する、そして経験が立証することを証明します。そして何かが残るか、或いは何も残らないかのどちらかです。ここには寿命という概念はないですが、彼は寿命に気づいていないです。生死は問題にはならないです。在ることとないことは問題にはなります。死んだ状態で「在ること」というもあり得ますし、生きた状態で「ないこと」もあり得ます。彼はこの問題を提起し、気づかずに証明し、気づいたら現実(0)から葬り去られるので、また現実(1)から彼は実験者となって、被験者となって、同じことを実は無限に繰り返しているのです。説明するのは難しいですが、「白」を「白」と証明することに近いです。明滅の眩しさ。この繰り返しは言うまでもなく、自然の摂理です。しかし、「在ること」を強制された人間の宿命であり、末路です。

33 彼の目指している幸福は今更言うまでもないですが、この探求心と好奇心と、気づいていますが、未知なるものを暴くということです。知性とか数式とか科学とか理性とか論理では説明出来ないもののことです。でも、粒子の連動や観察に人間の意志が影響するということが一般的には言われています。科学がいかなる最高度の段階を達しようとも、この一定の現象は証明出来ないと私は思います。0は単一、何も変わらないです、1は無限なようであるが、臨界点があります。何故なら造られたものだからです。人間が観測すると、今まで自由に動いていた光子や粒子が、膠着化されるこの現象について、光は粒でもあるし、波でもある、ただ観測すると、膠着し線になるとも言われます。

34 これは余談ですが、ポストモダンって複雑化された現実の1の事象を様々な対象概念に置き換えて、あらゆる言葉で説明しているにすぎないから、何の意味もないです。ジェジクまでくるとお話にならないです。こんなものは「知性」でも何でもないです。誰でも分かることを難しく書いてるだけです。その意味で、ドゥルーズのアルトー観って信用ならないんですよ。「経験」ではないからです。肉体の苦痛から最も遠い人という感じがします。少なくともロゴゼンスキーは身体の専門家だからまだ腑に落ちます。全然、要は「苦しみ」を知らないです。アルトーは現実(1)の苦しみに耐えられなかったから0を見出したわけです。繰り返しますが、現実(1)はアルトーが言うところの呪いのネットワーク、キリストが生み出したとされる存在たち、外部にあるすべてのもの、現実(0)は器官なき身体のことですけど、要は容器全体そのものを指しています。現実(0)という空っぽの容器の中であらゆるものが充足している状態或いは同時に空白、人間の内的変化、世界の治癒を思慮するに、ここに論点があります。つまり、生の特異的転回点のことですが。これは血で文字を書いたことがあるものしか分からないことでしょう。ここからの現実(0)を奪還することです。つまり、現実(1)を現実(0)に置き換えることです。バーチャル・リアリティってそういえばアルトーが生み出した造語でした。つまり、アルトーは今生きている現実(1)は違うことには気づいていたということになります。

35 彼はいつでもそうだった。過去の誰がやったとかそういうものは誰にでも言えます。それを特殊解釈、読解して、翻訳して、本来の言葉(バベル)の3段階くらい踏み越えてるのに、誰にも理解されないわけです。テキストの先にあるものを見ないといけないのに、さらにそこには「痛み」と「体験」と「実践」が伴うのですから。色んな人間たちに潰されてきました。しかも悪意によってです。理由は明らかです。誰も気づきたくないからです。彼のような存在は排他される運命にあるからです。それを論理で秩序だって説明することは不可能なのは自明のことですし、仮にそれをしたところで何の意味もないです。論理を越えたところに確立された事象や現状、あらゆる空間、時間、言説、誰も証明出来なかったことがあります。先見性を持たねばならないです。彼が見えていること、言うまいと決めてきたこと。彼は敗北するのか、分からないです。

36 人間は知ってはいけないということを無意識に拒否反応を示します、気づくと自分の存在意義を失うからです。だが、彼も含めちっぽけなガラクタにすぎないことをまずは認めなければならないです。過去のことあれこれが正しい、正しくない。正誤で判断出来るような問題に彼は興味がまるでないです。そもそも正誤で測れるものではないです。それは先人たちによって既に証明されたことです。理性でも論理でも、この世で計り知れない問題に足を踏み入れて、引き返せない極地までいくことです。ただ、そのことを彼は「神秘」という単純な言葉で片づけたくはないわけです。恐らく、本来は誰もが知っているようなことに彼は気づいています。ランボーの言葉を借りれば私とは一個の他者であるとも言えますが。実際につい最近まで、世界の果てはあると思われていたわけですし。だから人間の意識の変容は、特異的な生の転回点によって変わります。ある意味では、第四次産業革命みたいなもので。常に技術はそれには追いつかないです。知性も追いつかないです。それに気づいたときには我々は重大な罪を犯したことを知るわけです、そうなったときは既に手遅れです。

37 その時に失われていた何かが、地上に飛来してきた何らかの物体や意識を通して、瞬時に伝わります。例えば、物凄い密度の高い容器のようなものを想定してみましょう。それは途轍もない情報量と可能性を秘めています。それは絶対に理解されないです。何故なら、5感で捉えることが出来ないし、「意味」を越えた「意味」だからです。弁証法も唯物史観も形而上学もここで消滅します。生きる意味がないというのはある側面では真実ではありますが、徹底的な矛盾を孕んでいます。そもそも、人間は確立されてないですし、物凄く曖昧なものです。誰も人間の証明は出来ないからです。当然意識もです。意識の証明を論理立てて説明することは不可能ですが、ある観点から、実践することは出来ます。目撃すること、体感すること。意識や魂と言われるものはあらゆる空間に蔓延っているが、それぞれは伝達する術を持たないです。彼は彼の声を聞き、他者たるものは、あらゆる事象や現象に介在します。その時に永続性を伴なった「何か」に気づくわけです。その「何か」は現実(0)の一部です。それは同時に現実(1)の構成要素とも言えます。つまり、現実(1)を動かしている一定の原理や現象のことです。

38 何かを知覚するということは、それを同時に認めることでもあります。ですが、認めても、それはそこに在るとは絶対に誰も確立出来ないです。それ故に、すべての存在証明は誰であれ、不可能です。つまり、「見る」こと「体感」すること以外に、現実(0)の証明はなされないです。だから、現実(1)は常に可変的であり、流動化され、誰も実体を掴めないです。現実(0)は逆に、常に変わらずそこに在り、すべての調和や、実存の証となります。つまり1は0に似せたまやかしにすぎず、張りぼてのようなもので、一見、0と1は似ているが、性質は真逆のものです。絶対なる認識の錯誤は現実(1)から始まり、これは人間が共同生活を始めたときから、始まっています。その発端は「言葉」という呪いです。誰もが信じて疑わない現実の1は、現実の0を完成させようと思いました、何らかのものの意識が生み出したものです。それ故に、1を始めたものは0の正体は知っているはずです。それが何者かは分からないですが、彼は救われたと同時に、全く救いはなくなったわけです。つまり逃げ道がなくなったのです。普通の人生を絶対に歩めなくなったのです。何か不可解な「自分」ではないものに、駆り立てられるので、それは第三者が突き動かしているとしか思えないです。そう思うと、アルトーが言うように「生み出されたものはすべて破壊されたままである」というのも腑に落ちます。「現実の再構築とは同時に、人間の完成に他ならない」といったのもアルトーです。限定化されないもの、自由自在に動き回る実体が、あらゆる現実(1)の軸で同時に在るのは何故なのでしょうか。しかし、彼は在ることを否定したし、拒絶もしたはずだ。しかし、在ることを強制された。そして、私という概念は定義することは出来なくなりました。生きていると言えなくなりました。

39 人間の観察するという意志が、マクロレベルだと物質に影響し、マクロ以外の領域だと物質に影響しないっていうのが何か紐解くものになりそうではあります。しかもそれ以前の状態が膠着化されていない「カオス」ってのはガタリとも通じます。つまり、原子という空間が一個の世界だとして、マクロの領域だと観測する前は、A、B、C、D、E地点以下無限、には同時に存在するということも言えます。しかし、何者かが観測すると、A地点にだけ存在します。AとBを同時に観測することは出来ません。A、B、C、D、E地点以下無限に在るのにも関わらず、何故か同時に観測することが出来ないのです。これは本当に不思議な現象です。Aを認識しているときに、Bはない、Cを認識しているときに、Dはない、Cを認識しているときに、AもBもDもEも地点以下無限は認識できないのです。これが本当に正しいならば、マクロの世界だけではなく、現実でも同時に一致する可能性もありえます。つまり、空間の大きさに関係なく、その現象は一致するのです。なので、空間自体は大きくも小さくもないという仮説が成立します。

40 ある物質が同時にある空間に存在しているという仮説が成立すると、そもそも「存在」自体の確立がされていない。つまり「存在」が全くないとも言えるし、あらゆるところに「存在」があるとも言えます。これは観察者(現実0)の視点次第で、その「存在」を消せるし、「存在」させることも出来ます。極めて、恣意的なものとなる。この現象は何らかの「意志」が存在するという仮説も同時に成立します。ということは今、生きていると錯覚している現実(1)は観察者、現実(0)の視点で、操作され、現実(1)に何らの現象が派生すると、自動類比的に、現実(0)でも派生します。だから、2元論でもあるし、1元論でもあるとも言えます。その現象自体は1秒間に無限に近い回数で起こっているという仮説も成立します。

41 しかし、現実(1)と現実(0)は何らかの意志により、決して同時には「存在」することが許されていないです。でも、マクロの領域だと、同時に「存在」することが許されているという矛盾があるという仮説も成立します。

42 「睡眠と覚醒」について。神が夢について送り込むことを否定し、その理由として、もし神が夢の原因であるならば、目覚めている時にも夢は送り込まれるはずだ。したがって、聖パウロやアルトーの天啓は、「現実」で起こったこととして定義出来得る。

43 既存事物に対する神の現実的影響作用は然るに、最低から最高に至るその過程、全被造物を含む。自然の創造者である神は人間を援助されるとされるが、その具体的な手段は実践的認識による、人間を照らす現実的照明であると思える。

44 表象像は外的に照明される。能動者単独では現実的照明は不可能である。然るに、現実には現れない、照明者というものがいる。それを引き出す力は個人や環境、偶然、経験に由来する。内的な照明者は突如現れる。その時にすべてを吹き飛ばす。それを芸術や表現という単純な言葉で片づけたくはない。

45 永遠は既に同時に全体として存在しているし、被造物は永遠において時間のうちにおける(現在)よりも先に存在している。

46 円の中心を考えてみればいい。円の中心が決まれば、これから描かれる部分に現実は一致するはずだし、もう既に描かれた部分は現実に一致している。つまり、円周全体はもう既に決まっている。これは同時に我々が生きている現実と完全に一致する。その円の外もあるが、それは現実とは認識されない。

47 彼は特殊な無神論者で、有識者が認識している神というものは認めていない。つまり、抽象論が根底になってくるが、そこから表出してくる、影の影の影くらいまでは見ている。その一方で同じくらいの光の深度も見ている。だから神という創造者は想定していない。それが現実を射抜くということだ。

48 ソドムとゴモラに火を送ったがごとくに、大地は常に燃えている。あらゆるものが焼き尽くされた時にそこに蓋然的な真実性がなくもない。つまり、これが真実を伝えるものの役割だ。

49 ソラムに言ったように、ピラトに言ったように、ねえ、あんたは上から、すなわち天から、あれやこれや命令するが、彼に対して本来は何を言う権限もないはずだ。したがって、神には従わない。神の僕にはなりたくない。救われるとしても願い下げだ。地獄とはこの地上そのもののことじゃないか。

50 叡知者である我々と神の繋がりなんぞない。地上に一致するような比例的な類似性をうまく見せかけた聖典を伝達させ、人間にまで拡張することなんて傲慢そのものじゃないですか。

51 スコトゥスのように、存在が一義的と言われるならば、この一性を適用する場合、多くのもの、すなわち被造物すべてが一義的に同じであるとか、概念上は、「1」と「無数」の分別はなく、全く同じであるとも言えます。そして、これらは現実の認識なしには認識されないです。

52 「形而上学註解」第4巻 「実在している存在への帰属によって存在と言われている すなわち、実在している存在は、より完全な概念を所有しているとされる。」 この概念はそもそもないか、実在している存在は、告発され外部に追いやられます。なので、その存在を認めてはならないです。よって地上にはないです。

53 一義名辞、多義名辞、そして類比名辞、これらを定義する場合、二つの多義項と一つの一義項もしくは二つの類比項を前提に置く。そして多義性や一義性は同じであるから、本来の解釈は二つの概念とされていたが、一つの概念でもあります。

54 "ϛ" (スティグマ)の代用とスピン角運動量で永久運動が出来る可能性はないだろうか。セリーヌの「なしくずしの死」の登場人物である発明家のクルシアルが言うように永久運動にとり憑かれている奴は全員気が狂っているといいますけれども、電子のエネルギー固有値の融合が出来るとこれはつまり「労働」という概念がなくなる可能性も否めないです。

55 原子内の電子は陽子のまわりを回転していることで、スピン角運動量は完全に比例するから、電子陽子間の相互作用エネルギー総量っていうのは限界値がないと仮定は出来ます。限界値がないとするなら、質量も重さもなくなるんじゃないでしょうか。見えない-と+がお互い消し合うから、絶対値0が動く可能性はあります。

56 電子、陽子の状態が固定化されたものっていう認識だったのが、観測者次第によって固定化されていないっていうことがほぼ認められています。光の実験です。ということは被造物そのものの存在が誰も照明出来ないということになります。理由は構成要素が不確定で、不規則であるからです。

57 グノーシス派のテーマが、進展しつつ見られたのはこれが初めてであるとかスーザン・ソンタグは言いますが、カタリ派という宗派もあったわけだし(そこで世界は悪とされていました)、アリストテレスに影響を及ぼしたマニ教(同じく二元論)もあります。あと、グノーシスは意外にスピノザ的であり得たともいえます。(江川隆男氏の論考より)その結果生き抜いたアルトーが恐るべき破滅でもないし、最後の避難所でもないです(人間を超えた新しい文体を造り上げたのですから)、精神分裂病の構築などもってのほかです。彼はドゥルーズを理解しているとは言い難いですが、ソンタグは確実に間違っています。

58  彼は精神病とアルトーはほぼ関係がないと思っています。後期のテキストはやや常軌を逸する部分はあるにせよ、それはテキストの大部分ではないし、音声記号も少数にとどまるし(その発音自体に意味も見出せます。)したがって、基本的には理路整然としたものです。ドゥルーズはブルトンがヴァシェを利用したように、アルトーを利用したとまで彼は考えています。でも、これは、正直なところ分からないです。

59 スキゾとアルトー的文学の完成とは全く別次元のものです。アルトーの後期のテキストは「非意味」では少なくともないです。支離滅裂でも、分裂病的でもないです。それ故に、精神分裂病から帰結するようなものではないです。この点でドゥルーズは見誤ったのだと思います。分裂病と詩人を混合してはならないし、それは見かけ上の錯乱にすぎないと思われます。

60 彼もアルトーと同様に自我の独房にもううんざりしております。アルトーは狂人ではないし、狂人と天才的な詩人であることは彼は関係ないと思っています。なので、改めて「器官なき身体」を再考する必要があると彼は考えます。ですが、彼はそのことに関して充分に理解してはおりません。「器官なき身体」は今も尚生きておりますが、ドゥルーズ、ガタリの解釈は不充分ですし、側面を見出したにすぎないと思います。そう、もっと肯定的な態度で向き合うべきだったと解釈しています。

61 「絶対的身体」を見出さなければならないです。このためにはいくつかのプロセスを実践する必要があります。まず、体験主義に基づくこと、そして、アルトーが訴えていた苦しみを受容することです。未完成な身体の不死性とともに「私がここにいる」というおぞましい現実を受け入れ新たな旅路へと向かうことです。

62 あの長期間に渡る電気ショック療法のせいで、アルトーの中で気づいたものがあるのだと思います。ただ、その意味を追い求めようとも無意味なんですよ。アルトーの後期は「意味」や「論理的帰結」を追い求めて解釈できる類のものでは絶対にないです。かといって前述の通り、「非意味」でもないです。唯一、「体験」と「実践」と「推察」によって理解できます。

63 いまの[現実]が1だとしてその対極にある[現実]は0です。1を産み出した奴がこの現実に呪いをかけたのです。だから、違う観点から着想すればいいんです。そうすると見えてきます。xとyは実は交わらないってことです。その外に本当の[現実]がある。これが「器官なき身体」です。

64 ユーグッリット原論では数の概念は次のように定義されています。数とは1から出来ている多である、1とはおのおのものがそれによって1と呼ばれる単位のことである、ギリシャ数学における数概念の基本的な考え方は1という単位が積み重なる、「1」対「数」の二分法、「1者」対「多者」という哲学的構図、「分割不可・不可能」という概念上の区分に、古代ギリシャ人は極めて敏感でした。

65 彼は「0」のことを考える、「0」を発明したのは周知の通りインド人です。大成するのは7世紀のブラフマグプタの著作「ブラフマスプタ・シッダーンタ」において、何よりも重要なのは「0」や負の数をも含めた一般的な演算規則が体系化されたことだ。もはやそれ以上分割出来ない根本存在は何かという問いは、デモクリトスの原子論をはじめとします。「0」と「1」は本来は区分してはならない、別々に分けてはならない、交わってはならないものです。
 
66 タレスやアナクシマンドロスによるミントス学派とパルメルデスやエレアのゼノンによるエレア学派の二つに大別されます。エレア学派はそもそも「存在する」とは何かという根本的な問いから出発しました。その意味で、形而上学的存在論の創始者とも言えるし、この問いから西洋哲学は始まったのではないでしょうか。エレア派とピタゴラス派がお互いを知らなかったともされているが、知っていたことも充分にあり得ます。

67 探求の道は「存在する」か「存在しないか」二つだけが思い浮かび得る、それは数でいえば「0」と「1」です。ある、とし、ないということはありえぬ、とする道もある。彼は、我々が知覚している現実はない、とし、断じてないとすべきであるという立場です。パルメニデスの「ある」は神秘主義的色合いが強いし、唾棄すべきものです。全き意味での「一者」などいない。少なくとも現実(1)にはいないです。

68 最も物事の真の姿ではないという一つの典型であるプラトンのイデア論のことはもっと無視していいはずです。絶対に交わらないはずの素数と「極限」の概念の記号化、「実数論」に抽象という概念はあまりなかったが、生々しく彼は実現するための実践法を思案していますが、これは非常に難儀です。

69 東洋医学について。西洋医学は科学思想を基調として成り立ってるが、東洋医学は自然哲学思想によって裏づけされているようだ。その研究は、古方的用薬、後世方的方式、経験中心方式のようにまちまちです。思想体系や理論面だけに共鳴するのではなく、臨床的な実地面が重要です。大きくわけて針灸療法、薬物療法(湯液)、薬物そのものに関するものがあります。薬の剤形には、煎剤のほかに丸・散などがあります。しかし主となるものは煎剤すなわち湯薬だ、そこで薬物療法を針灸と対比させるために湯液という言葉が用いられました。

70 最も重要なのは東洋医学の基礎概念だ、哲学的な自然観照法がそのまま生体現象に適用されたとみなされ、二元論的な認識法がその基礎概念となります。二元論的とは、一つの現象を相対する二つの面から観察するということを指す。生体現象に帰一されるから、一元的二元論または二元的一元論と言ってしまってもよいです。基本は「気と血」そしてさらに「陰と湯」「虚と実」というような対立概念によって相対的に病態を観察することです。

71 気というのは生命現象の根源で目に見えないもの、血というのは目に見えるもの。気の異常は血の変調をもたらし、血の異常は気の異常を起こす。西洋医学も実は現代とは違い、東洋医学と近似性があります。その根源はギリシャ時代にあり、ヒポクラテスの時代に体系づけられた医学思想です、それは液体病理学と言われ、4つの体液(血液、黄疸汁、粘液、黒疸汁)を分けて、これらの不調和が病気をもたらすと考えられていた。そして外界より取り入れられるプノイマ(霊気)が変調をもたらします。

72 陰陽思想は、自然界の根源である太極から陰陽の二気が生じ、これがまた太陽に統合されるという古代の哲学思想から出たもので、易の理論となったものです。陰陽の分化は、動的なものが陽で、静的なものが陰です、しかしこれはかなり抽象的なもので、「すべてのものには二面性がある」という理解にとどめておけばいいでしょう。そして、虚とは空虚で、実とは充実した状態のことです、数学では、実数と虚数が定められているが、医学的な虚実はこのような実在、架空というような極端な対立概念ではなくて、むしろ0を基点とした+、-、という数理観のほうが近いものがあります。

73 病気の内因は強い情緒に誘発され、怒、喜、思、憂、恐などの5種の情動でもあり、外因は、気血の不調をおこすものとして、風、寒、暑、湿などがあげられる。これらの状態を脈診で判断するというのが基本となります。

74 解剖学を基礎とした西洋医学に関して。心身の状態を鑑みるに、生理系再生組織(皮膚、毛、小腸、血球、子宮内膜)、条件再生系組織(肝臓、結合組織、血管内皮、平滑筋)、非再生組織(神経細胞、骨格筋、心筋)主に3つに分類される。生理系再生組織は生理系再生組織は幹細胞が細胞を供給している。条件再生系組織はゆっくり増殖します。損傷したら急激に増殖する。非再生組織。殆ど増殖しないです。変わらないです。誤った複製の細胞を見つけるとアポートシスします。つまり細胞は自死します。過剰なストレスを受けるとネクローシスします。つまり壊死します。ある条件下では創傷治癒することもあります。つまり勝手に復元することもあります。この現象を記憶という領域で考えるとアポートシスさせても、ある条件下で創傷治癒してしまうのではないでしょうか。ネクローシスさせても、同様に創傷治癒してしまいます。だから、我々は生きることが出来るのです。

75 あらゆる思念やあらまし、着想、イデアの介入の余地なく、物象的な、心象的なことから完全に独立しており、あらゆる因果もなく、何者にも依しないもののことについて、隔離された空間の無時間性(アルトーが精神病院に9年間も閉じ込められたことを考え、そこからの復活)のことについての考察。アルトーが一時期、ダライ・ラマへの言及やヨーガ行者やバラモン教のことを熱心に調べていたことを考えると、すべての感覚器官の停止は同時に静かなることの体験[瞑想]でもあり、別の身体を見出すことへと繋がる(器官なき身体)仏教の「空」の思想に近いことをアルトーは言及してるのではないでしょうか。

76 「西洋医学的身体」と「東洋医学的身体」というものがあります。前者は解剖学的であり、後者は臓腑経絡的である。当然のことながら、両者は相反するものであるが、アルトーは東洋医学的身体を進化させた後に、「器官なき身体」を見出すに至ったのだと思います。(実際のところ、アルトーが器官なき身体という言葉を使ったのは一度だけですが)

77 バトモス島にいたヨハネの黙示録は聖典ではないように彼には思われる。その理由は、「被造物についての大全」(アルベルトゥス・マグヌス)を根拠とします。観察に基づく自然学は、そこには「視覚」の領域の影響しか及ばないので、天変地異は福音記者が「目撃者」として観察した「出来事」ではないし、一定の仮説に基づく空想上の論理が根拠になっているような代物です。あんなに奇妙で不気味なものはいらないのです。恐らく、ヨハネの名前を語った何らかのものが商売上の理由であのような読み物をあくまで「物語」として書いたのでしょう。天上位階論「聖なるケルビムの階級ははるかに高い知恵と知識を分有しているけれども、その下の諸存在の諸階級自身もケルビムの階級と比べると部分的に劣ったものである。」「第一の階級たる使徒は下位の階級たる使徒の聖なる特性を溢れるほど有しており、それと同様に最下位の階級も第一の階級も聖なる特性を有しているのであるが、ただしそれは同じ仕方ではなく劣った似非ものの仕方なのである。」このことを鑑みるに、天上の諸力や天変地異、黙示録という名称を使うにあたっても、それぞれの階級の特性に対して、あらゆる福音記者たちは何か混乱を引き起こすような、人々に恐怖を与えるようなことは絶対にしないです。また、実際に福音記者とは異なるが、天使の諸階級が入り乱れることも許されないし、秩序の根源を転覆したり、われわれがすでに正しく区分した聖なる諸力のうちの上位の特性を全面的に下位の諸存在にも認めてはいないからです。

78水素分子の電子的構成についてのハイトラーのロンドンの見解。非極性科学結合がの理解が最初の手がかりを与えた。これが1926年。水素分子は分離されないと考えられていたが、回転する水素分子の陽子の波動関数の考察と実験により、陽子に対してスピンをおこなうと、いわゆるオルソ状態、パル状態の分離という現象が起こる。それはデニソンにも理解され、低温での水素ガスの比熟の不可解な異常性を理解するのにも役立った。二原子分子である水素は2個の陽子を持っていることが一般化された。陽子はスピン自由度をもっているため、その向きが同一のものをオルソ水素、反対のものをパラ水素と呼応する。常温で平衡状態にある水素は、パラ水素が25%、オルソ水素が75%の割合で存在している。平衡状態のパラ水素とオルソ水素の存在割合は温度のみの関数で表され、液体水素の沸点では、99%近くがパラ水素となる。しかし、オルソ水素からパラ水素への転換の時定数は数日程度かかる。その際に液体水素の蒸発潜熱より大きいエネルギーを放出する。水素を液化する際は、酸化鉄や酸化クロム等のオルソ・パラ転換用触媒を使用する。

79このことを考察するに、木星や土星のような水素が主成分で出来ている惑星の均衡状態を崩すこともあり得ます。実際にわずか2グラムの水素は2リットルのペットボトル約11本半になるって東工大の研究で発表されています。環境変化の何らかの過程で水が水素になった、あるいは水素が水になったという論点が浮上する。時間の経過とともにゆっくりとパラ水素に変換されるという学説が一般的だが、環境状況によって当然異なります。酸化マンガンと酸化コバルトの因子が確認されてるから、何らかの異常な環境変化があったということは明らかです。ということはかつては水があったという可能性があり得る。彼は近いうちに水があったことを証明出来ると思っています。ただし、今の技術では不可能だと思います。その環境を人工的に作れないからです。ですが、近い未来ではそれは可能だと思います。オルソ水素とパラ水素を同じ重力と同じ環境下でまず貯蔵庫みたいなものにその環境を人工的につくりだします。そういう実験を繰り返す。そうすると水素が主成分の惑星はかつて水があったということが証明されるはずです。水があったということはかつて、生命がいたという可能性があるということです。そうすると進化論は嘘であることが証明出来るんじゃないでしょうか。人類の祖先はサルの仲間ではないです(この考察の証明には膨大な時間を要するのでいずれ触れたいです)、それゆえにパンスペルミア説が正しいことになります。そして、「原始スープ」は嘘であるという結論に至るんじゃないでしょうか。

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