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#浄土真宗
今日の日めくり歎異抄の言葉28
今日の日めくり歎異抄の言葉
私の都合で
「いい」
「悪い」
☆☆☆
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まこ
今日の日めくり歎異抄の言葉26
今日の日めくり歎異抄の言葉
何を
しでかすか
わからない
そんな私
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(『歎異抄』第十三条)
☆☆☆
そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべから
今日の日めくり歎異抄の言葉25
今日の日めくり歎異抄の言葉
私の
はからいが
邪魔になる
こともある
念仏には無義をもつて義とす、不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
(『歎異抄』第十条)
CONCERNING the nembutsu, no working is true working. For it is beyond description, explanation, and comceptual un
今日の日めくり歎異抄の言葉24
今日の日めくり歎異抄の言葉
よろこぶ
べきことが
よろこべ
ない
念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は
今日の日めくり歎異抄の言葉23
今日の日めくり歎異抄の言葉
真実からの
よびかけに
応えながら
この人生を
生きる
念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々。
(『歎異抄』第八条)
THE nembutsu, for its practicers
今日の日めくり歎異抄の言葉22
今日の日めくり歎異抄の言葉
さまたげが
さまたげで
なくなる人生
念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(『歎異抄』第七条)
THE nembutsu is the single path free of hindra
今日の日めくり歎異抄の言葉21
今日の日めくり歎異抄の言葉
向かい合う
ことも大切だが
ともに
同じ方向を向く
ことも大切
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
(『歎異抄』第六条)
☆☆☆
聖人が「親鸞は弟子一人ももたず」と仰せられたことは、覚如上人の『口伝鈔』第六条(『註釈版聖典』881頁)にも伝えられていまして、そこには次のようなエピソードが記されています。
常陸国の新堤(にいつづみ)に信楽房(しんぎょうぼう)という人
今日の日めくり歎異抄の言葉20
今日の日めくり歎異抄の言葉
大きないのちに
貫かれた
私たちのいのち
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。
(『歎異抄』第五条)
☆☆☆
私がこの世に誕生したのは、父と母がいたからです。今の私にとって両親という二人の存在はかけがえのない大切なものになります。その両親からもう一世代さかのぼれば四人の祖父母がいます。さらにもう一世代をさかのぼれば八人になる。このようにして二十数
今日の日めくり歎異抄の言葉18
今日の日めくり歎異抄の言葉
できるだけの
ことを
させて
いただこう
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
(『歎異抄』第四条)
☆☆☆
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するを
今日の日めくり歎異抄の言葉14
今日の日めくり歎異抄の言葉
私の行いは
私をどこに
連れて
いくのだろう
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(『歎異抄』第二条)
☆☆☆
凡夫のはからいを離れて
他力の信とは、ひとえに如来の本願の不思議を信受して、凡夫のはからいを少しもまじえないことであると、聖人はつねにいわれていました。『御消息』に、
如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との