今日の日めくり歎異抄の言葉21
今日の日めくり歎異抄の言葉
向かい合う
ことも大切だが
ともに
同じ方向を向く
ことも大切
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
(『歎異抄』第六条)
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聖人が「親鸞は弟子一人ももたず」と仰せられたことは、覚如上人の『口伝鈔』第六条(『註釈版聖典』881頁)にも伝えられていまして、そこには次のようなエピソードが記されています。
常陸国の新堤(にいつづみ)に信楽房(しんぎょうぼう)という人がいて、聖人について浄土の教えを学ぶために、京都までたずねて来て入門していました。しかし親鸞聖人の教えがどうしても納得できないというので聖人に反抗し、門弟をはなれて郷里へ帰ることになりました。いよいよ出ていくという時に、聖人の内弟子であった蓮位房(れんいぼう)が、「信楽房にさずけられている本尊やお聖教をとりかえされるべきではありませんか。とくに表紙の題号の下に〈釈 親鸞〉と聖人が御自筆で署名をされたお聖教が多いが、門弟をはなれてしまえば、おそらく粗末にあつかうことでしょうから」と申しあげました。
その当時、本尊や聖教を伝授することは、師弟関係を証明するものとみなされていましたから、破門になれば、当然、取りかえすのが常識だったからです。
ところが、聖人は彼の申し出を拒絶されました。
「本尊や聖教を取りかえすというようなことは、決してしてはならないことです。そのわけは、親鸞はわが弟子というようなものは、一人ももっていないからです。ひとをわが弟子とよべるような何事も、私は教えていません。念仏往生の信心は、弥陀、釈迦二尊のおてまわしによって恵み与えられたものであって、この親鸞がさずけたものでは決してありません。私もあなたがたも如来の御弟子なのですから、みな同じ浄土への道を歩ませていただいている同行というべきです。近ごろは互いに意見がちがって別れるときに、本尊や聖教を取りかえしたり、つけ与えた房号(ぼうごう 法名)もとりかえし、信心までとりかえすというようなことが常識になっているようですが、決してそのようなことはすべきではありません。
もともと本尊やお聖教は、如来が衆生利益(しゅじょうりやく)のためにお恵みくださったものですから、親鸞と仲たがいをして、他の人の門弟になられたからといって、わがもの顔にとりかえそうなどとすべきではありません。如来の教法は、すべての人に行きわたるようにと願いをこめて与えられているものです。法師が憎ければ、その袈裟まで憎いというように、親鸞が憎いからといって、私の名の書いてあるお聖教を、山野に捨ててしまうようなことがたとえあったとしても、その地で、そのお聖教にふれたものには、たとえ畜生であっても仏縁を結んでくださるにちがいありません。少しでも広く、多くのものに縁を結びたいという如来の御心にかなうためにも、本尊や聖教を世俗の財宝のように私物視し、とりかえそうというようなことは、してはならないのです」
と仰せられたといわれています。
この信楽房の事件は大変有名でしたので、覚如上人の『改邪鈔(がいじゃしょう)』にもでてまいります。おそらく『歎異抄』は、このときのご法話を伝えているのでしょう。ただ信楽房はのちに心をひるがえして、再び聖人のもとへ帰ってきました。『親鸞門侶交名牒(しんらんもんりょきょうみょうちょう)』にその名が出ていますし、いわゆる門弟二十四輩(にじゅうよはい)のなかにも名をつらねる有力な門弟となっていった人です。おそらく聖人のこうしたおことばを伝え聞いて、感動して回心したのでしょう。
聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
信楽房の故事 192〜194頁
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一 弟子・同行をあらそひ、本尊・聖教を奪ひとること、しかるべからざるよしの事。
常陸国新堤の信楽坊、聖人 親鸞 の御前にて、法文の義理ゆゑに、仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻(とつび)にあづかりて本国に下向のきざみ、御弟子蓮位房申されていはく、「信楽房の、御門弟の儀をはなれて下国のうへは、あづけわたさるるところの本尊・聖教をめしかへさるべくや候ふらん」と。「なかんづくに、釈親鸞と外題のしたにあそばされたる聖教おほし。御門下をはなれたてまつるうへは、さだめて仰崇(ぎょうそう)の儀なからんか」と云々。聖人の仰せにいはく、「本尊・聖教をとりかへすこと、はなはだしかるべからざることなり。そのゆゑは親鸞は弟子一人ももたず、なにごとををしへて弟子といふべきぞや。みな如来の御弟子なれば、みなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すとみえたれば、まつたく親鸞が授けたるにあらず。当世たがひに違逆(いぎゃく)のとき、本尊・聖教をとりかへし、つくるところの房号(ぼうごう)をとりかへし、信心をとりかへすなんどいふこと、国中に繁昌と云々。かへすがへすしかるべからず。本尊・聖教は衆生利益の方便なれば、親鸞がむつびをすてて他の門室に入るといふとも、わたくしに自専(じせん)すべからず。如来の教法は総じて流通物(るずうもつ)なればなり。しかるに親鸞が名字ののりたるを、〈法師にくければ袈裟さへ〉の風情にいとひおもふによりて、たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくはれてことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐(ほんがい)、そのとき満足すべし。凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。よくよくこころうべし」と仰せありき。
『注釈版聖典』口伝鈔(六)880頁