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今日の日めくり歎異抄の言葉14

今日の日めくり歎異抄の言葉

私の行いは
私をどこに
連れて
いくのだろう

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(『歎異抄』第二条)

☆☆☆

凡夫のはからいを離れて
他力の信とは、ひとえに如来の本願の不思議を信受して、凡夫のはからいを少しもまじえないことであると、聖人はつねにいわれていました。『御消息』に、
如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処(ふしょ)の弥勒菩薩をはじめとして、佛智の不思議をはからふべき人は候はず。
(『註釈版聖典』779頁)
といわれています。
人間は、この世をどう上手に生きるか、どのようにして人に勝つか、ということに関してはずいぶん賢いのですが、生きることの根源的な意味とか、死の何たるかについては、まったく無知な存在なのです。何ごとも知らないままに生まれてきて、わからないままに押し流されているように生きつづけ、ふと気がついたときには、もう自分に与えられた持ち時間がきれていた、そんなときになって、いったい自分は何のためにあくせく苦労してきたのかと、むなしい思いを抱きながら死を迎えるのかと思うと、身震いするような思いがします。
生にもまして死は不可解です。生と死を二元的に分けて、対立的にしか考えることのできない人間の知識は、生の真相を知り得ないように、自分の死について知る能力ももっていません。そんななかで、ただ確実におそってくる死の予感におびえているのが人間のなまのすがたなのです。
こうした人間の知識の限界を突破して、生と死をこえて生死を一望のもとに見通すことのできる無分別智を獲得すれば、私どもが実体視しているような生や死は虚構であるとさとり、生も死も分けへだてせず、そっくりそのままにありがたきこととして受けいれることのできるような境地に到達します。それを「さとり」といい生死解脱ともいいます。
そのようなさとりを開かれた仏陀が、生死に迷う私どもに、生きることの意味と、方向を知らせるために説きたもうたのが『無量寿経』であり、『観無量寿経』『阿弥陀経』だったのです。生と死についての人間の根源的な愚かさを知るならば、人間の知識や能力にたよらず、私のはからいをすてて、仏陀のみことばを素直に受けいれることこそ、私どもの正しい態度であるといわねばなりません。それを信心というのです。法然聖人は「浄土門の修行は愚痴にかえって極楽に生まる」といわれていますが、みずからの根源的な無知に気づいて、本願の仰せをはからいなく受けいれるべきことを教えられたものでした。
聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
「念仏に生きる」95〜96頁

☆☆☆

浄土宗の人は愚者になりて往生す

『註釈版聖典』親鸞聖人御消息 771頁

☆☆☆

是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師(にんし)をこのむなり

『註釈版聖典』正像末和讃 自然法爾章 622頁

名利: 名聞利養(みょうもんりよう)名誉や利益

ものごとの善悪も、正しいことやよこしまなことの区別もつかないこの身である。わずかばかりの慈悲さえももっていない身でありながら、名誉や利益を求めて人の師となることを望むのである。

『三帖和讃』現代語版 196頁