今日の日めくり歎異抄の言葉25
今日の日めくり歎異抄の言葉
私の
はからいが
邪魔になる
こともある
念仏には無義をもつて義とす、不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
(『歎異抄』第十条)
CONCERNING the nembutsu, no working is true working. For it is beyond description, explanation, and comceptual understaning.
Thus the Master stated.
(A Record in Lament Divergences 10)
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このこころをえつれば、「他力にはぎのなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。
(『尊号真像銘文』註釈版聖典 673〜674頁)
When one has understood this, then as our teacher Master Honen declared, "Other Power means that no working is true working." "Working" [that is negated] is the calculating heart and mind of each practicer. As long as one possesses a calculating mind, one endeavors in self-power. You must understand fully the working of self-power.
(Notes on the Inscriptions on Sacred Scrolls)
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「義」とは、「宜」とか「誼」と同じく、ものごとの正しいすじ道、道理のこと
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「義」(ギ)
〔意味〕①すじ道。かどめ。かどめが正しい。
〔類〕宜・誼
〔解字〕会意兼形声。我は、ぎざぎざとかどめのたったほこを描いた象形文字。義は「羊(形のよいヒツジ)+音符 我」で、もと、かどめがたってかっこうのよいこと。きちんとしてかっこうがよいと認められるやり方を義(宜)という。
(新漢和大字典より)《画像添付》
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「他力の念仏には、行者のはからいをまじえないことをもって本義とす」
不可称の称には、「秤」(ひょう)と同じように「はかる」という意味があります。そこで、不可称とは「はかるべからず」と読むことができます。如来のみ心は、はかり知ることができないからです。また称揚(しょうよう ほめあげる)の意味とすると、ほめたたえつくすことができないということになります。不可説とは、説きつくすことができないということです。相対的な表現しかできない人間の言葉をもって、絶対的な如来の救いのはたらきを説きつくすことはできないからです。不可思議とは思いはかることができないということです。
聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
「はからいの誡め」272〜273頁
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「称」は御なをとなふるとなり。また「称」ははかりといふこころなり。はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声、きくひと、疑ふこころ一念もなければ、じつは報土へ生ると申すこころなり。
(『一念多念文意』註釈版聖典 694頁)
Saying (sho) means to utter the Name. Sho also means to weigh, to determine the measure of something. This means that when a person says the Name even ten times or but once, hearing it and being without even the slightest doubt, he or she will be born in the true fullfilled land.
( Notes on Once-Calling and Many-Calling)
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「称」 (ショウ)
〔意味〕①はかる。物を持ちあげて重さをはかる。はかりの左右を平均させてはかる。転じて広く、なりゆきをはかりにかけて考えること。
〔同〕秤
〔類〕量
「称量(はかる)」
②となえる(となふ)
〔類〕唱・号
③となえ、おおやけにいう名前
「尊称」「称号」
④ほめる(ほむ)たたえる(たたふ)
〔類〕誉・賞
〔解字〕会意兼形声。称は「禾(作物)+音符 爯 ショウ」で作物をぶらさげて重さをはかること。持ちあげる。はかるなどの意を含む。
〔単語家族〕丞 ジョウ(持ちあげる)