今日の日めくり歎異抄の言葉26
今日の日めくり歎異抄の言葉
何を
しでかすか
わからない
そんな私
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(『歎異抄』第十三条)
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そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人は仰せ候ひし・・
(『歎異抄』第十三条 注釈版聖典 843~844頁)
かつて誤った考えにとらわれた人がいて、悪を犯したものをお救いくださるという本願であるからと、わざわざ悪を犯し、それを往生のための行いとしなくてはならないなどといい、しだいにそのよくないうわさが聞こえてきました。そのとき聖人がお手紙に、「いくら薬があるからといって、好きこのんで毒を飲むものではない」とお書きになられましたのは、そのような誤った考えにとらわれているのをやめさせるためなのです。決して悪を犯すことが往生のさまたげになるというのではありません。
「戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を信じることができるのなら、わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか」と、聖人は仰せになっています。このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の本願に出会わせていただいてこそ、本当にその本願をほこり甘えることができるのです。だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いをすることなどできないでしょう。
また聖人は、「海や河で網を引き、釣りをして暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕えて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ」と仰せになり、そして「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」と仰せになったのです。
(『歎異抄』 現代語版 28~30頁)
There was, in those days, a person who had fallen into wrong views. He asserted that since the Vow was made to save the person who had committed evil, one should purposely do evil as act for attaining birth. As rumors of misdeeds gradually spread, Shinran wrote in a letter, “Do not take a liking to poison just because there is an antidote.” This was in order to put an end to that wrong understanding. It by no means implies that evil can obstruct one’s attainment of birth.
He also said, ”If it were only by observing precepts and upholding rules that we could entrust ourselves to the Primal Vow, come indeed to “presume” upon it. But even so, how could we commit evil acts without any karmic cause in ourselves?
The Master further stated:
For those who make their living drawing nets or fishing in the seas and rivers, and those who sustain their lives hunting beasts or taking fowl in the fields and mountains, and those who pass their lives conducting trade or cultivating fields and paddies, it is all the same . If the karmic cause so prompts us, we will commit any kind of act.
( A Record in Lament of Divergences 13 )
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「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと水火二河のたとへにあらはれたり。
(『一念多念文意』注釈版聖典 693頁)
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと水火二河のたとへにあらはれたり。
(『一念多念文意』注釈版聖典 693頁)
Foolish beings: as expressed in the parable of the two rivers of water and fire, we are full of ignorance and blind passion. Our desires are countless., and anger, wrath, jealousy, and envy are overwhelming, arising without pause; to the very last moment of life they do not cease, or disappear, or exhaust themselves.
( Notes on Once-Calling and Many-Calling )
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