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今日の日めくり歎異抄の言葉28

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今日の日めくり歎異抄の言葉

私の都合で
「いい」
「悪い」

☆☆☆

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せ候ひしか。
(『歎異抄』後序)

親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽くしたのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。

Among Master Shinran’s words were:
I know nothing at all of good or evil. For if I could know thoroughly, as Amida Tathagata knows, that an act was good, then I would know good. If I could know thoroughly, as the Tathagata knows, that an act was evil, then I would know evil. But with a foolish being full of blind passions, in this fleeting world --- this burning house --- all matters without exception are empty and false, totally without truth and sincerity. The nembutsu alone is true and real.
( A Record in Lament of Divergences Postscript )

☆☆☆

人みな心あり。心おのおの執ることあり。かれ是(よ)んずればすなはちわれは非(あし)んず、われ是みすればすなはちかれは非んず。われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あ)しきの理(ことわり)、たれかよく定むべき。あひともに賢く愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。
(『憲法十七条』第十条 註釈版聖典1436頁)

「人にはみな心がある。その心は、それぞれに自己中心的な執らわれに支配されている。そういう自分本位な立場からあらゆることを判断するから、彼がよしとすることを、我はあしとみなすし、我がよしとみなすことを彼はあしとするようになる。しかし、我があやまちをおかさない聖人では必ずしもないし、彼があやまちばかりおかす愚者では必ずしもない。我ひとともに、自己中心的な想念にふりまわされている凡夫にすぎないのである。このような凡夫同志が、是非を争ってみても、これこそまことの是であり非であると決定することは誰にもできはしない。お互いに賢さと愚かさが同居していて、ちょうど円形の耳かざりの輪の一点は、始めであると同時に終わりでもあるようなものである」
日本人が仏教の「凡夫」ということばを用いた最初期の文献がこの『憲法十七条』ですが、古来「ただひと」と読みならわされています。特別の人ではなく、普通の人間ということですが、これによって普通の人間が、どれほど危険な存在であるかということを思い知らされます。
太子は、こうした人間の秘めている恐るべき危険性を察知されたからこそ、この『憲法十七条』を制定して、仏(真実にめざめた方)、法(仏の示された正しいみ教え)、僧(仏の教えを実践する人びとの和やかな集い)の三宝に帰依して、まがれる心を正し、平和な社会の実現に向かうべきことを指示しようとされたのでした。
親鸞聖人は、聖徳太子を「和国の教主」とあおぎ、日本仏教の父として尊敬されていますが、それだけではなく、阿弥陀仏の慈悲をあらわす観世音菩薩の化身として、私を導き育ててくださった方として信奉されていました。
この『歎異抄』の法語は、おそらく太子の深い人間観を、聖人の鋭い宗教的感性によって、再確認されたものといえましょう。
(聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師 332~333頁)