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今日の日めくり歎異抄の言葉23

今日の日めくり歎異抄の言葉

真実からの
よびかけに
応えながら
この人生を
生きる

念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々。
(『歎異抄』第八条)

THE nembutsu, for its practicers, is not a practice or a good act. Since it is not performed out of one's own designs, it is not a practice. Since it is not good done through one's own calculation, it is not a good act. Because it arises wholly from Other Power and is free of self-power, for the practicer, it is not a practice or a good act.
Thus were his words.
(A Record in Lament of Divergences 8)

☆☆☆

『宝号経(ほうごうきょう)』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり。」名号はこれ善なり、行なり。行といふは、善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。
『親鸞聖人御消息(四二)』註釈版聖典807頁

THE Sutra of the Treasure Name states: "The nembutsu of Amida's Primal Vow is not our practice, it is not our good; it is simply keeping the Name of the Buddha." It is the Name that is good, the Name that is the practice. When we speak of practice, we mean doing good. The Primal Vow is clearly the Buddha's promise. When we have understood this, we see that the Vow is not our good, nor is it our practice. Hence we speak of Other Power.
(Lamp of the Letter Ages 22)

☆☆☆

かくて第八条と、第九条は、その念仏をいただいているもののすがたを具体的に示されたのである。すなわち第八条には、
念仏は行者のためには、非行非善なり、
といい、われわれが称えつつ、しかもそれはわれわれの造りだす行でもなく、善でもなく、仏からいただいた大行であり、大善であることを明らかにしてある。このように仏からいただいた大行であり、大善であってこそ、人間的な外ばかりかざって、内はむなしいけがれのまじった行や善とちがって、絶対にまじりけのない純粋行であり、純粋善でありうるのである。かかる真実の大行、大善をいただいてこそ、人間がおのずから純粋な方向へとむかわしめられるのである。
しかもここに非行非善といって、無行無善といってないことに注意しなければならない。この点おおくの人が誤りやすいところで、他力といえば無力の如くおもうから、他力は骨のない無努力主義だと考えたり、他力思想が低劣視されるのである。決してそのようなものでなく、人間的な虚偽の行いや独善主義の思いあがりをすてて、仏の絶対至純の心にかえってこそ、真実の大行大善にみちびかれて無碍の一道を歩みうるのである。そこには絶対至純の世界からあらわれた価値が充溢していることはいうまでもない。しかしながらそれは自分の造りだしたものでなく、仏からいただいたものであるから非行非善というのである。
『歎異抄のこころ』山本仏骨師
〔附〕歎異抄ノート 198〜199頁