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アイヌの歴史12『古代の蝦夷-後編-』


蝦夷の記録

 7世紀中期から8世紀初頭には大化の改新により、地域の豪族の半独立した国造が廃止され、全国が豪族を通さず国司により直接統治されるという令制国となり、大宝律令で法律も整備され、東北には軍事を司る鎮守府が設置された。

 このような改革が急がれた背景には663年に領土拡大を行い百済や日本の支配地域だった任那を征服した新羅と、新羅と同じく高句麗と百済と敵対していたことで後ろ盾となった唐に白村江の戦いで大敗を喫し、中国の社会体制に近づけて国力増強を行おうとしたという背景がある。

高宗

 唐高宗(李治)時代に送られた遣唐使の中には蝦夷も参加しており、そこでは近畿の一番近くの関東や南東北の朝廷支配下の蝦夷が熟蝦夷(にきえみし)、それより遠くの北東北の朝廷に服属しきっていない蝦夷が麁蝦夷(あらえみし)、一番遠く最北の蝦夷が都加留(津軽)として紹介されたとされる。

旧津軽郡

 中国への蝦夷の風習の紹介などは敢えて野蛮人に見せるための誇張が多かったが、北に行けば行くほど蝦夷は朝廷に協力的で無かった事、都加留(津軽)の勢力が、当時、一つのカテゴリとして紹介される程大きかった事がわかる。

恩荷らが出迎えた秋田湊

 他にも、蝦夷は基本的に農耕ではなく狩猟を行なっており、弓術に非常に優れていたのも、顎田(秋田)の蝦夷の族長恩荷(おんが)の弓矢は狩猟の道具に過ぎないという言葉から単純に食料の確保のためにうまくなっていたと考えられる。

 この頃にはすでに越後平野、仙台平野、米沢盆地、山形盆地までの住民は、ほぼ他の日本人と変わらない様子となっており、これ以降、蝦夷と呼ばれるのはそれよりも北の住民となる。

阿倍比羅夫の粛慎遠征


阿倍

 また、大化の改新より前の658年には阿倍比羅夫が率いる180隻の船に乗った軍勢が日本海沿岸の征服に派遣され、現在の秋田市周辺にあたる顎田、現在の能代氏周辺にあたる渟代、そして現在の青森や弘前、黒石、五所川原などにあたる都加留の三つの勢力を支配下に置いた。

 さらに渡島(わたりしま)の蝦夷とも良い関係を築き、そのまま昔の欽明天皇の時代に一度、佐渡島に来航した記録のある粛慎(ミシハセもしくはアシハセ)という人々を襲撃し一旦帰還した。

ヒグマは本州にはいない

 この際にヒグマを献上しているため粛慎は北海道の人々で確定でき、それと、ここでいう渡島(わたりしま)は、字は同じだが現在の渡島半島ではなく北海道全域を漠然と指すものである。

後の胆振国
後の後志(しりべし)国

 次の659年3月には阿倍は再び遠征しそこで胆振(いぶり)と同盟し現地の蝦夷の要請で後方羊蹄(しりべし)にて郡司を任命し役場を設置、粛慎にも勝利し捕虜を持ち帰った。660年3月には200隻の大軍勢で現在の北海道に上陸した。

 そこで粛慎の襲撃を受けていた渡島の蝦夷が粛慎の討伐を懇願、蝦夷の先導で粛慎と接触し、絹や武器、鉄など日本の品々を置いて、交流を試みるが粛慎軍はそのまま弊賂弁(へろべ)島に撤退、阿倍軍はこれを追いかけ、粛慎の講和も突っぱね、戦闘が開始する。

 粛慎は自分の砦を使った攻城戦を行い、将軍の一人能登馬身龍(のとのまむたつ)が殺害されたが、すぐに鎮圧され、粛慎達はその後の奴隷売買などを恐れてか妻子を自ら殺害、その後、粛慎は朝廷と友好関係となり、蝦夷と共に官位を授けられた記録がある。

中国の粛慎(しゅくしん)の子孫にあたる満洲系の世界的ピアニスト郎朗

 渡島の蝦夷は続縄文時代〜擦文時代の移行期のアイヌで、津軽、秋田、能代の蝦夷はシリーズ内で触れた地名などからアイヌと日本人と同じ系統の民族が混在しているものと思われるのだが、北方の粛慎に関しては正体不明で、前3世紀頃まで満洲地域のツングース系住民を指して使われた"粛慎(しゅくしん)"と漢字が同じだが千年近く経っており関連性は無いだろう。

7世紀は真ん中
オホーツク文化の子孫にあたるニヴフ

 地理的には北海道の北方との事なので、当時、道北、道東、千島、樺太に分布していたオホーツク文化の人々と考えるのが自然で、他にも渤海、靺鞨、高句麗などの民族の一部なのではという説もあるが、実は粛慎の弊賂弁島は渡島(北海道周辺)の一部であるとの記述があり、北海道付近の北にある島と言えば、礼文島、利尻島樺太で、全て当時オホーツク文化圏である。

 このオホーツク文化についてはシリーズの中で後述する。

太宰府跡

 また、阿倍比羅夫の蝦夷遠征は阿倍が白村江の戦いに駆り出された事で終了しており、その後、阿倍は唐や新羅の攻撃に備える九州防衛の太宰師(だざいのそち)に任命されている。

大化の改新後の蝦夷


後に発見された威奈の遺骨

 中国と同じく朝廷中心の整備された律令制国家となった日本は、次に、大崎平野を陸奥国、庄内平野を越国地方北部が分割設置された越後国の地域下に入れるが、今まで順調に進んできた南東北の支配と違い、小規模な反乱が頻発、庄内平野では越後守の威奈大村(いなのおおむら)が直接蝦夷の渟足柵に赴任して反乱を諌める事態になっていたという碑文の記録がある。

庄内

 その後、阿倍真君(あべのまきみ)が越後守を引き継ぐと蝦夷の住む庄内地方には出羽郡が正式に設置、越後国の中に完全に取り込まれ、庄内地方の日本人が蝦夷に襲撃される事件や暴動が頻発し、巨瀬麻呂や佐伯石湯などの将軍が鎮圧に派遣された。

紫が大崎地方

 鎮圧後には庄内地方の出羽郡が越後国とは別の出羽国となり、陸奥国の範囲内で完全に朝廷の支配下で安定していた、最上郡や置賜郡も出羽国に編入された。一方、大崎平野では庄内平野の反乱の際には一時的に荒れていたが、その後は平和で特に反乱も無かった。

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