【エッセイ】私の死生観
古いカフェの一室で、ふと誰かに追われている気がして立ち上がる。振り返った瞬間、目の端で灰色の閃光が走った。何が起こったのか分からないまま、私はそばにあった椅子にぶつかって倒れた。何者かに飛び掛かられて地面に頭を叩きつけ、目の奥で火花が弾け飛んだ。余りもの激痛に意識が飛びそうになった。が、そうなっていた方が私は幸せだったのかもしれない。体を起こそうとしてみたが、首が少しだけ動いただけだった。息も満足にできない。ぼやけた視界が戻ってくると、左手があり得ない方へと曲がり、折れた肋骨が2本ほど体の外へ飛び出しているのが分かった。そして、私に覆いかぶさる2つの赤光が目のように並んだどす黒い人型の霧があった。・・・重い。動きはしなかったが、だんだんとその重みが増して、私の体はそのまま真っ二つに折れそうになりながらゆっくりと床下へとめり込んでいった――(ここで目が覚める)
この前に、私は予知夢をよく見ると書いたけれど、予知夢しか見ないわけではない。ノーマルの夢はかなり不定期に訪れる。一週間の間に数回見ることもあるし、年に一回も見ないこともある。その内容のほとんどが自分の死に関わるものが多い。ゲームの中のような戦場で戦車に轢かれて死んだり、建物内で狙撃されて絶命したりしている。が、今回のような緩やかな死を疑似体験したのは初めてのことだった。
いよいよ自分が死ぬんだなと穏やかな気持ちになった瞬間に夢から覚める。私はこれを独自に覚醒死と呼んでいる。目覚めると、破裂しそうな勢いで鼓動する心臓に驚きつつ、体の激しい生への執着を同時に感じる。一見すると、この穏やかな心と生への執着というギャップは真逆のリアクションみたいに見えるのだけれど、自分の中ではそれが確かに起こっているのだから否定しようがなくて、毎回不思議に思っている。
覚醒死から覚めた時、私はMintJamの chronograph(♬ Never let go)と Reincarnation(♬ コトノハ)を聴いて気持ちを落ち着かせる(リンク先にサンプルがあるので、よかったら聴いてみてください)。
MintJam は音楽に興味のない自分に「CDを集めてみたい」と思わせてくれた人生で唯一つの音楽ユニットですんで、それらの曲には何か特別な力があると思っています。
さて、人は自分の生まれた日を知ってはいるものの、自分が死ぬ日は知らない。だから、死は得体の知れない恐怖という見方をしてしまいがちだ。一度、死=恐怖という結びつきを自分の中に作ってしまうと、気持ちはいつまでも和らぐことはない。そういった時、宗教に救いを求めたり、占いに頼ったりという手がこの世界にはある。でも、残念ながら自分の外にあるものを利用して心を楽にすることができるのは一時だけだ。死は弱った心のすき間にいくらでも入り込んでくる。そこで、私は心の持ち様で死に対する見方を変える方が良いと思うようになった。
私の「死に対してどう向き合えばいいのか?」という疑問に答えてくれたのは「葉っぱのフレディ」という絵本だった。「死ぬのが怖い」と震えている小さな子供に対して、作者が優しく諭すように言葉を紡いでいる。誰にでも感覚的に理解できると思うのでオススメだ。
この絵本の内容を自分なりの言葉で要約すると、どんな形であれ自分が生きた証を残せたっていう満足感や実感があれば、死は安心をもって迎えられるはずだ、という感じになる。これはそのまま私の死生観につながっていて、輪廻転生の半歩先を行く素晴らしい考え方だと信じている。私の中にある輪廻転生のイメージは「人が何度も生と死を繰り返すシステム」という概念でしかなかったし、作中にもそういう表現はある。でも、私としてはもう少し踏み込んだ納得のいく言葉が欲しかったので「葉っぱのフレディ」はとてもタイムリーだった。
自分の中にある死への恐怖や絶望感を解かしていってくれたのだから、何にも代えがたい贈り物のように心に響いた。実際に、死の間際に感じる感情は恐怖か安心か(それ以外か)は分からないけれど、それは自分が生きている間の行動次第で決まってくるのだろうと、今はそう思っている。
「ためになるわ」と感じて頂ければサポートを頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。