トーハク『神護寺展』…2人の天才、空海さんと最澄さんが出会った場所−高雄山寺−
東京国立博物館(トーハク)では、2024年7月17日から9月8日までの会期で、特別展『神護寺…空海と真言密教のはじまり』が開催されています。そんな神護寺展について、書こう書こうと思いつつ、なかなか手を付けられず、手を付けてからも数週間が経ちますが、ちょこちょこと追記&修正を重ねつつも、あと会期が1週間しかないのにまだ完成に至っていないので、もう「えいやぁ!」とアップすることにしました。そんな感じで今回“も”ダラダラとしたnoteです。
神護寺……関東で生まれ育ったわたしには、あまり馴染みのないお寺さん。「トーハクで特別展が開催されるくらいだから、神護寺ってすごい寺なんだろうけど……神護寺展って、そんなにすごいものが展示されているの?」と思ってしまう関東出身者が大半じゃないかな……と思います。もちろん根っからの美術や仏像やらが好きっていう方は「知らないんかい!?」という感じでしょうが、かくいうわたしは「時間を作って神護寺展へ、わざわざ行くべきかどうか」を迷った一人です。
結果としては…トーハクが近所でササッと行けるということもありますが…行ってよかったです。ということで、今回のnoteは「関東人が神護寺展へ行くべき理由」みたいなのを記していきたいと思いつつ筆を取りましたが……書いていくうちに主題は変わるかもしれないのでご了承ください。
また、以下は、わたしの推測で書いている部分が多い点をご了承ください。noteであれば許されるかな……と思って書いています。とぉ〜っても長い文章なので、「手っ取り早く、どんな展覧会だったか知りたい」という人は、コンパクトに記した下記サイトをご覧ください。
■観覧前後に読みたい……司馬遼太郎『空海の風景』
20代の後半に40日間をかけて、四国の八十八箇所を歩いて巡ったことがありました。主に空海さんに由来する、真言宗の寺院を巡る聖地巡礼です。もちろんわたしは真言宗徒でもなければ仏教徒でもありません。ただ暇だったのと体力だけには自信があったので、登山用のバックパックにキャンプ道具を詰め込んで、「行こう!」と決めてから1週間後には、徳島行きの船に乗り込んでいました。
その時に、テントの中で読もうと思って持っていったのが、司馬遼太郎さんの『空海の風景』でした。
今回は、空海さんに関連する神護寺の展覧会ということで、久しぶりに同書をKindleで手にいれて、主に展覧会へ行った後に読みました。
今年……2024年は、空海さんの生誕1250年。関連する展覧会があちこちで開催されています。トーハクだけでも『神護寺展』のほか、ミュージアムシアターでは東寺を、来年年始だったからは「大覚寺展」があります。そうした展覧会の前後に、一読しておくと、空海さんをより立体的に理解できるような気がします。
ということで、以下は同書に少なくない影響を受けた後の文章になっています。
■日本仏教の礎を築いた最澄と空海とゆかりの深い神護寺
まず「神護寺」という現在の寺号(寺の名前)を、前面に押し出している点が、誤解というか……この寺の重要性を希薄にさせているような気がします。
というのも「神護寺」という寺号は、平安初期の824年に付けられたものです。ですが、平安京の北西に位置する「高雄山」には、それ以前から、寺がありました。この高雄山寺は、現在まで続く皇統を護ったとも言える、和気清麻呂を出した和気氏によって作られたものです。
そして、最澄や空海が関わったのは、主に「神護寺」になる前の「高雄山寺」の時代なんです。ということで、以下は「高雄山寺」と記していきます。
高雄山寺の創建年代は不明ですが、わたしの勝手な推測だと、おそらく最澄さんが比叡山に分け入ったのと同時期か、それより少し前のことか……いずれにしても、奈良時代の最終盤に作られたのだろうと思います。なぜかと言えば、それまでの京(首都)は、平城京や長岡京だったからです。現在の京都は、辺鄙だったかは分かりませんが、都会ではありませんでした。
ではなぜ最澄や和気氏は、当時の首都である平城京から遠い、山背国や近江国の国境の山に寺を建てたのでしょうか?
まず最澄については、Wikipediaによれば否定されていますが、奈良の南都六宗(特に法相宗と三論宗)を中心とした、中央集権的な仏教を、良く思っていなかったか、閉塞感を感じていたのではないかと思います。
だいたい、仏教が552年に伝来したときから奈良時代の末期まで、仏教に「人々を救う」という目的は希薄だったというか、ほとんどありませんでした(←わたしの推測です)。聖徳太子などの大和朝廷が、仏教を布教させようとした目的は、6世紀……古墳時代あたりまで統一されていなかった(大和朝廷が考える)道徳的な規範を、下々にまで浸透させる政治的なツールとして、施政者は仏教を広めようとしたのだと思います。
大和朝廷をトップとする中での、社会の秩序を作りたかったはず。そのために善悪や倫理観、ルールを規定する……そのために仏教を使ったのだろうと推測しています。
もちろん、仏教伝来以前にも各地には「神道」という宗教的なものがありましたが、現在のように「神道とは」という統一的なものはなかったはずです。さらに神道は、今でもそうですが、土地土地に自然発生的に宿るものであり、その神は、ひたすらに感謝したり崇めたりする対象であるだけで、神が民に「何々をしないと不幸になる」と言うわけではなく、逆に「何々をすれば幸せになる」とも言わない存在だったでしょう(わたしの勝手な認識です)。
一方で仏教とは、よりアクティブに「幸せになるために信仰するもの」、「正しい(とされる)行いを教えてくれるもの」だし、それらを遵守すれば「救ってもらえるもの」……苦しい現状・現実から救われたいがために信仰する対象……そういうものだと、わたしは思っています。
そして、当時の仏教における「幸せ」とは、「現世から来世、そして来来世と続く永遠の苦しみの繰り返し(輪廻)からの解脱……脱出すること」でした。
今の仏教というか大半の宗教も、そうでしょうか?
悟りを開き解脱して、幸せのうちに涅槃……一切の不安なく亡くなる……。そう信じられれば、現世での苦しみを克服できるかもしれませんし、現世での苦しみに耐えることで、より悟りを得やすくすると、考えたかもしれません。
そして仏教の「こうすれば幸せになれる」というのは、多分に、大和朝廷の都合の良い道徳が組み込まれていたと、わたしは思います。
そうした道徳というか基本ルールを、全国へスムーズに浸透させるために、すでに各地にあった神さまと融合させたのではないかなとも、わたしは推測しています。
なにか陰謀論のように聞こえるかもしれませんが、統一のルールや道徳を浸透させるのは、為政者にとって、とても重要なことです。例えば「和をもって尊しとなす」という文章は、多くの日本人が共有しています。「何事も協力すること、喧嘩せずに平和に過ごすことが、最も尊いものです」と言った意味でしょうか。この言葉を聞いて「当たり前じゃない?」って、ほとんどの日本人が思いますよね。こうしたものが、聖徳太子の時代から、仏教なども使って、繰り返し擦り込まれてきた。「こうした規範を共有している人たちが、日本人である」と、定義しても良いかもしれません。
大和朝廷は、そうして仏教を地方へ進出させて、地元の神さまと習合させることで、大和朝廷の決めた道徳……統一ルールを浸透させていったのかもなと。神仏を習合(ミックス)させることで、当時は怪しいとも思われていただろう、新興宗教である仏教を、津々浦々まで浸透させやすくしたのだろうと考えています。
天照大御神の伊勢神宮に対して、地元の神を祀る出雲大社が、同じ神社とはいえ天皇系統ではないことは、よく知られています。出雲大社においては、天皇でさえも、その本殿には入れません(他の神社は入れるらしいです)。
奈良時代くらいまでは出雲大社と同様に、天皇とは異なる系統の、地元の神様を祀る神社が日本各地にあったのではないかと思います。その状態は、大和朝廷にとっては望ましくなった……できれば全国の神社も、天皇系の神様を祀らせるか、天皇系の神話の中に組み込みたい……神社の中央集権化を進めたいと目論んだのではないかとも思います。712年、太安万侶に、稗田阿礼が古事記を語り伝えたとされています。その時に、彼が全国の神様を矛盾なく古事記に組み込んでいったことでしょう。
それでも大和朝廷による、九州から関東までの支配は、完璧なものではありませんでした。そこで、741年(天平13年)には、聖武天皇が仏教によって国家鎮護(鎮護国家)を祈願するために、日本の各国(各地)に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。その中心となったのが東大寺です。そして天平勝宝元年(749年)には、東大寺の大仏が完成しました。この時、九州・豊後国(大分県)の宇佐神宮の神さま(八幡神)が、輿に乗って奈良に来たという記録が残っています。宇佐神宮の神様に、大和朝廷の権威を示す、大仏の完成を祝わせたのではないでしょうか。
また例えば、奈良の興福寺と切っても切れない関係にある春日大社の創建は、奈良時代の神護景雲2年(768年)だとされています。この春日大社の祭神は、常陸国(茨城県)にある鹿島神宮の神さま(武甕槌命・タケミカヅチノミコト)と、下総国(千葉県)にある香取神宮の神様(経津主大神・フツヌシノオオカミ)。解釈は色々ありますが、この2つの祭神は、地元の神様だったのが、中臣氏=藤原氏に乗っ取られて、鹿に乗って奈良の春日大社へ行ったことにされたのではないか? とも思います。
こうして奈良時代までは、全国の神様を古事記や日本書紀に取り込んでいきつつ、宇佐神宮や鹿島神宮などの地方に居る有力な神さまを奈良に呼び、中央集権化を進めた……。と同時に神仏習合を進めながら、仏教(=大和朝廷のルール)を全国へ浸透させていった……かもしれません。
当時の仏教は官製宗教でしたし、組織としては朝廷の外にあったけれども、極めて密接な「関連機関」だったと言えます。政教分離なんていう概念は極めて希薄で、むしろ政教は一体だっのです。
政教一体だったということは……相互に影響を与えたり受けたりしたわけです。つまりは、せっかく奈良に集めた政治的または宗教的な権威が、朝廷と仏教寺院とで分散していきました。さらに朝廷にとって不都合だったのは、仏教の権力が、コントロールできないまでに増大してしまったことです。
それを象徴するのが、神護景雲3年(769年)に起こった弓削道鏡による宇佐八幡宮神託事件でした。春日大社が創建された翌年のことです。女帝である称徳天皇の寵愛を受けた、奈良仏教の僧侶である道鏡が、天皇になろうと企んだとされる事件です。詳細な経緯はWikipediaなどに載っていますが、最終的には「宇佐の八幡さまは、『道鏡を天皇にしてはダメぇ〜!』と、おっしゃられています」という報告を受けて、道鏡は天皇になれませんでしたし、地方へ左遷させられました。
ちなみに、この時に宇佐八幡宮に神託を聞きに行き、報告したのが、神護寺の基となる高雄山寺を菩提寺とする、和気清麻呂さんです。
それはさておき、(神社を含む)奈良仏教がどんどん権力を増大させていき、朝廷が危機感を募らせていった時代に登場したのが、政治では桓武天皇であり(781年に即位)、仏教界では最澄と空海だったと言えるでしょう。
まず桓武天皇は、奈良仏教(それに藤原氏)に奪われた権力を取り返して、改めて中央集権化したいと考え始めます。これは大和朝廷への権力集中ではなく、天皇である自身への権力集中を考えていたはずです。でも正攻法では、そう簡単に権力は取り戻せるはずもありません。そこで諦めたのか……「それじゃあ奈良仏教がうるさい平城京から、都を長岡京へ遷す!」と、延暦3年(784年)に決定しました。
もちろん遷都には、賛成派も反対派もいたでしょうが、長岡京へ遷都したのは、延暦3年(784年)です。空海が故郷の讃岐国(香川県)から奈良・平城京へ上京してくる4年前のことです。造営は始まりましたが、長岡京への遷都は順調には進みませんでした。
さて、最澄が僧の資格を取り(具足戒を東大寺で受戒)、比叡山に籠もり始めたのが延暦4年(785年)です。3年後の延暦7年(788年)には、今の延暦寺の根本中堂がある場所に小さなお堂を建てて(後の一乗止観院)、自作の薬師像を安置したとされています。
延暦4年(785年)は、最澄が数えで20歳、空海が12歳です。まだ空海は故郷の讃岐にいました。
ここで「最澄さんって、東大寺で受戒したの? ってことは、東大寺で修行されていたってこと?」と思うかもしれませんが、おそらく最澄さんは受戒しただけで、それほど東大寺とつながりはなかったと思われます。生まれも、修行をされていたのも近江国(滋賀県)でした。単に受戒できる場所で、一番近くにあったのが東大寺の戒壇院だったという話だったと思われます。当時、受戒できるのは……僧侶の資格を得られるのは……、ほかに筑紫国・観世音寺と下野国・薬師寺のみでした。
とにかく東大寺で、本当の意味の僧侶ライセンス(具足戒)を取得した19歳前後の最澄さんは、すぐに比叡山で山籠りをはじめます。「なんで?」って感じです。おそらく東大寺で具足戒を受戒した僧は、今で言えば国家公務員試験に合格したようなもので……一年に10人前後の合格者しかいないという……かなり狭き門でした。その代わりに、具足戒さえ受ければ、あとは各国の国分寺に責任者として赴任するか、中央の寺で自分よりも年上の下っ端僧侶に対してふんぞり返って過ごして、偉くなっていく……というのが一般的だったと……これはもう本当に、現在の国家公務員制度からイメージした、わたしの想像です。
最澄さんは、自分の前に敷かれた、そうしたレールの上を進むのをやめて、比叡山で山岳修行的なことをし始めたようです。
「なんで?」っていえば、おそらくこの頃は時代が大きく変化する、激動の時代だったから……というと抽象的すぎるでしょうか。ただし、これは政治の話だけでなく、宗教の面でも変革期にあったと予想します。
仏教では世を鎮められない……鎮護国家が怪しい……
同時に、先進国の中国からは最新の仏教がチラホラと断片だけが伝わってきていました。天台の教えも、密教だって、伝わっては来ていたんです。
さらに神道なども混じった、のちに修験道(しゅげんどう)と呼ばれる山岳信仰も盛んになりそうな兆しです。天狗のような格好をして、山の中を歩く修行ですね。最澄が山籠りする以前から、もしかすると比叡山一帯は修験道の霊山・聖地だったかもしれません。元々、比叡(ひえい)山の麓には今は「ひよし(日吉)大社」と呼ばれていますが、「ひえ(日枝)神社」がありました。最澄のお父さんが、子宝を授かるように祈りに来た場所としても有名で、そのかいあって最澄さんを授かったとされる場所です。
そうした状況で、若くて優秀な最澄さんと空海さんが、「今までの延長にある仏教を、漠然と学んでいていいんだろうか?」と考えるのも不思議ではないというか……特に既存仏教に反抗心がなくとも、新しいものにチャレンジしたいと考えるのは、自然なことだったでしょう。
とにかく最澄さんが、比叡山で修行していた794年に、朝廷が平安京に遷都してきました。
当時の天皇、桓武天皇に遷都を進言したのが和気清麻呂ですが、その和気清麻呂の影響で、桓武天皇が最澄に注目するようになったとも言われています。そして遷都後には、桓武天皇はみずから比叡山の最澄を尋ねます。
「この優秀な若者をバックアップすれば、奈良仏教に対抗しうる、子飼いの仏教勢力に育てられるかもしれない」
桓武天皇は、そう考えた……かもしれません。
その後、最澄が32歳の時には、宮中で天皇の間近に奉仕して病気平癒を祈る内供奉十禅師(ないぐぶ じゅうぜんじ)という役職に大抜擢されます。さらに延暦20年(801年)には比叡山で、延暦21年(802年)には高雄山寺(現・神護寺)で、奈良の高僧たちを呼んでの法華経の法会……講義を開きます。
天台宗のサイトには、この時のことを「奈良の高僧たちは、氷がとけて水となるように、いままで分からなかった問題がすべて解決する素晴らしい教えであると高く評価しました」と記していますが……当時37歳の最澄に、奈良から比叡山や高雄山に呼び出されて、講義を聞かされた奈良の高僧たちは、かなり苦々しく思ったに違いありません……といったようなことが、司馬遼太郎は『空海の風景』で記されています。
とにかく、飛ぶ鳥を落とすような勢いで出世していった最澄は、中国・天台宗の中心である天台山へ赴き、しっかりと天台の教えを学びたいと願います。すると桓武天皇が、25年ぶりに遣唐使を派遣することを決定します(最澄のために? なのかは不明)。そして804年に出発しました。
■先進国の中国で盛んだったのは密教
最澄の話に夢中になりすぎました。
とはいえ、804年に最澄と同時期に、遣唐使のための船に乗って中国へ渡るまで、空海が何をしていたか……確かな記録はないようです。
10代半ばで故郷の讃岐国を送り出された空海さんは、ちょうど奈良の平城京から長岡京へと都が遷り始めるころに上京しました。はじめ空海は、官僚となるために、上京したといいます……延暦7年(788年)のことです。
讃岐国の有力豪族の子息だった空海さんは、控えめに言っても天才だったと思います。それがために、瞬く間に官僚となるための勉強を終えてしまったことでしょう。結局のところ、受験勉強とは正解を覚えるための反復作業でしかありません。
その後の空海さんが、人々を救いたいがために仏道を選んだ……というのは、少しマユツバモノです。そうした気持ちが皆無だったとは思いませんが、それよりも「答えを見つけるのが難しい、もっと社会にとって有用な課題に取り組みたい」という動機の方が、強かったのではないでしょうか。
空海は、一族が望んだ中央官僚になる道を捨てて、仏道に入ります。奈良……南都で仏教という思想の勉強を始め、基本的な知識をどんどん吸収していったことでしょう(空海さんは後々まで南都寺院と良好な関係で居続けます)。そして空海さんも、峰々を歩き始めた……と考えられているようです。
そうして山を歩いているうちに、「密教」に出会いました。『空海の風景』によれば、既に密教の“かけら”のようなものが日本には伝わっていたそうです。それらの雑密と呼ばれる“かけら”は、まだ“かけら”でしかなく、体系化されたものではありませんでした。空海さんは、そうした“かけら”を修行の中で拾い集めていき、「これからは密教だ!」と確信したようです。
結果、最澄さんが「天台の教えを、本場の中国で学びたい」と考えたように、空海さんも「密教を、本場の中国で学びたい」と強く思い始めたのです。
ただし、最澄さんが徐々に出世していき、その結果として遣唐使に随行できることになった…ということがハッキリしているのとは異なり、空海さんが、どんなコネで中国へ渡る資格を得たのかは不明です。
推測としては、桓武天皇の信頼を得て、新たな都で勢力を増していく最澄さんの存在が、空海さんに好機をもたらしたと思われます。桓武天皇の意図通り、奈良の南都仏教が過去のものとされていく……そういう危機感があったと思います。そこへ現れたのが、これまた天才の空海さんです。彼を南都仏教の側に引き込み、新興勢力の最澄さんに対抗させる……ということで南都仏教の推薦によって、空海さんが渡航の権利を得た……のかもしれません。
■日本仏教の礎を築いた最澄と空海とゆかりの深い神護寺
2人が同時に歴史に記録されるのは、同じ延暦23年(804年)に遣唐使として唐へ渡った時です。この時に2人が挨拶や会話を交わしていたかの確証はありません。唐へ向かう際にも違う船に乗り、中国大陸で上陸したのも違う場所でした。会っていない可能性も、少なくないのです。
とにかく2人は唐へ向かいます。最澄さんの主な目的は、天台山で天台宗を学ぶこと。一方の空海さんは、密教を極めること。そのため唐に着いた最澄さんは、今の浙江省台州市にある天台山国清寺へ直行します。一方の空海は、橘逸勢(たちばなのはやなり)などとともに長安にある青龍寺を目指しました。
そして最澄さんは、台州の天台山修禅寺の座主・道邃和尚と出会い、天台教学の書物を貸してもらい、猛烈に写しました。さらに天台山へ行き、仏隴寺(ぶつろうじ)の座主・行満和尚から天台教学を伝えられます。そこから台州に戻った最澄さんは、改めて道邃和尚から、今度は大乗菩薩戒を授かります……受戒です。授戒または受戒には、いくつかの種類やランクがありますが、大乗菩薩戒は、その頃の中国・唐で重要視されてきた戒律です。
後に最澄さんは、これまで東大寺などで行なわれていた具足戒の授戒のほかに、この大乗菩薩戒も、正式に認めてもらうよう運動を始めます。
というのも、当時認められていた僧侶のライセンスは、東大寺など全国3箇所で授戒する具足戒のみでした。それに、最澄さん自身が授けられる大乗菩薩戒を、僧侶のライセンスとして朝廷が認めてくれれば、最澄さんの弟子たちを、自らの手で僧侶にしてあげられるからです(これは数十年後……最澄さんの死の直後に認められます)。
とにかく最澄さんは、天台教学を修め、天台の大乗菩薩戒を授かり、坐禅を修めます。そして帰国の途につこうとしますが、都合よく船が出せるわけもなく、出港までに待つ必要がありました。そこで……ここが重要なのですが……最澄さんはその待ち時間に、霊巌寺の順暁阿闍梨から、密教の伝法を受けたんです。そうして最澄さんは、日本を出てから約1年後には、資格のようなものや経典などをいっぱい持って、805年の6月に平安京へ帰りました。
ちなみに、空海さんが帰国するのは、さらに1年後。桓武天皇が崩御された後の806年の8月です。
さて……まずは最澄の話しを続けます。帰国した最澄さんを待ちかねていたかのように迎えた桓武天皇は、さっそく密教の灌頂(かんじょう)を奈良の学僧たちに授けるように命じました。
ここでいう灌頂とは、密教における資格…ライセンスのようなものです。密教の初級・中級・上級・師範級……みたいな灌頂があったようです。
この時、最澄さんは焦ったかもしれませんね。「え? わたしが専門にしているのは天台教学であって、密教ではないんだけどなぁ」と。「正直……密教って、さらっとしか教えてもらっていないから、灌頂とか言われても……準備ができないよぉ( ; ; )」と。そもそも中国の唐で、サラッとしか学ぶ機会がなかった最澄さんが、他の誰かに灌頂を施して良いのかすら怪しいもので、その怪しさを、最も自覚していたのは最澄さんだったろうと思います。
わたしの空想では、最澄さんってとても真面目で誠実な方です。その想定のもとで、なぜ桓武天皇が、わざわざ最澄に密教の灌頂を、奈良の学僧に授けるように命じたのかを考えますと……桓武天皇は焦っていたんだろうなと(空想です)。
桓武天皇は翌年には崩御されます(亡くなります)。そろそろ長くないと感じた桓武天皇は、自分の時代で、奈良の南都仏教と対抗しうる仏教勢力を確立させておきたい……と考えたのではないかなと。そのため、帰国した最澄さんから「唐(中国)では今、むっちゃ密教が流行ってました!」と聞いて、「それじゃ、最澄ちゃんが、奈良の僧たちに灌頂しちゃってよ」と……。
「いや、それは無理ですって! わたしは阿闍梨から灌頂を受けたと言っても、ちょこっと教えてもらっただけですから……。密教の灌頂に必要な法具も、手元に揃っていないんですよ」
そう言う最澄さんに、桓武天皇は重ねて「最澄ちゃん、そんなこと言わんといてや。朕(ちん)が成仏する前に、南都仏教の僧侶たちにガツンッと一発、くらわしたいねん」と頼み倒したんじゃないかなと。
天皇さんにそこまで言われたら、最澄さんも無碍にできません。「できる限りのことはさせていただきます」と返事をして、命令どおりに灌頂っぽいことをした……というのは、わたしの空想です。
とにかく最澄さんが日本で初めて、中国仏教の最新トレンドである「密教」の、重要イベントである「灌頂」を行ったのは、記録に残っている史実です。灌頂をどこで行ったかと言えば、既に和気清麻呂の息子に代替わりしている、和気氏の菩提寺……高雄山寺です。つまり、今回のトーハク特別展「神護寺」の前身となる寺院でのことでした。
最澄さんがわたしの考えているような性格だったとしたら、密教の灌頂を行ったことは、自らの汚点と考えたはずです。
その翌年、806年の3月に桓武天皇が崩御し、同年8月には空海さんが帰国します。といっても、空海さんは九州にとどまり、すぐに平安京に戻ってきたわけではありません。本当は、数十年間、唐で修行すべし! と言われていた空海さんは、勝手に帰国してしまったからです。そのため帰国後も、平安京へは戻らず……いや戻れず……九州にとどまったのです。
空海さんが京都=平安京へ戻ったのは、桓武天皇のあとの平城天皇が、実弟の嵯峨天皇に譲位した809年のことでした。その後の空海さんは、しばらく高雄山寺(後の神護寺)を拠点にします。しばらく……というのも、けっこう人生の長い時間を高雄山寺で過ごすことになります。
空海さん……高雄山寺では何をしていたかと言えば、密教をジワジワと布教しつつも、その教え……というかストーリー建てを盤石なものにしようと、整えていたようです。というのも、空海さんが学んだ長安・青龍寺の恵果和尚の中では、密教がまだ不完全なものだったフシがあります。
密教はインド発祥なのですが、仏教徒ではないわたしからすると、とても不可解な世界です。というのも、仏教=釈迦の教えのはず。それがだんだんとややこしいストーリーが増築されていき、とりあえずは、仏教ワールドには様々な世界があって、それぞれの世界には如来がいるとしたはずです。例えば極楽浄土という世界には阿弥陀如来がいる……現世のわたしたちが今生きている世界には釈迦如来が居た(現在は如来が不在で、弥勒菩薩が如来として降臨するのを待っている状態)……というような、如来が一番偉いというストーリーだったはずです。それが密教になると、すべての如来や菩薩などの上には大日如来が居るとしたんです。
まぁ一冊読んだくらいで密教が分かってしまうなら、それこそわたしは如来や菩薩になってしまうでしょう……つまりは分かっていない密教について語っているわけで……それはおそらく現役僧侶でも五十歩百歩ではないかなと……と言ったら怒られるでしょうけどね。
さらに分からないのは、インド発祥の密教には、金剛頂経系(金剛界)と大日経系(胎蔵界)とがあるといいます。この2つは、バラバラに中国に渡来し、空海の師匠である恵果さん以外は、2つを理解していませんでした。要はインド密教そのものが2派に別れていて、別れたまま中国に伝来した……その2派のいずれも修めた僧が、唐でも恵果さんだけだったという話ではないかと思います。
その恵果さんも、2人の弟子以外には二系統を教えなかった……教えられなかったそうです。さらに、そのうちの一人は病弱だったらしく、恵果さんは「わたしの真の法統が絶えてしまう……」と危機感を募らせていました。そこに東から現れたのが、空海さんだったということです。
そして、ここも個々で司馬遼太郎さんの書なり密教関係者などに確認してほしいのですが、司馬遼太郎さんによれば、空海の師である恵果さんもまた、金剛頂経系(金剛界)と大日経系(胎蔵界)とを1つの密教としてまとめ上げられなかったようだとしています。
その二系統を一つにまとめあげたのが、空海さんだ……と、司馬遼太郎さんは認識しています。
仏教って……膨大な経典が存在するんですよね。数学など、難しいことを考えるのが得意なインド人が考え始めた思想だからなのか……色んな経典=ストーリーがあります。その個々の経典には、解釈書があるわけです。例えば、わたしが唯一暗記している短いお経……「般若心経」というのがありますが、その短い「般若心経」ですら、それを解説する書籍って、けっこうな文量がありますよね。
何冊あるか分からない経典があり、それぞれに経典以上の解釈書がある。空海さんも、それらの主要なもの……自身が大切なものだと考えたお経と解釈書を読み込み、咀嚼し、その上で新しい密教ワールドを学び、咀嚼する……。さらに空海さんが恵果さんから伝えられた密教ワールドは、まだストーリー建てが脆弱だったんです。空海さんは、様々な経典と矛盾することのない、密教のストーリーを再構築しなきゃいけなかった。それを、九州滞在中や京都の高雄山寺(後の神護寺)で行っていたわけです。
■高雄山寺は、最澄と空海という2人の天才が確実に出会った場所
同時代に生きて、同じ仏教業界で活動し、船は違えど同じ時期に出港した遣唐使船で中国・唐に渡ったのが、最澄さんと空海さんです。渡唐した時までに、どこかで2人は会って話をしていたのではないか? とも空想したくなりますが、そうした記録は残っていません。
2人が確実に対面したのは、弘仁3年の11月、高雄山寺においてです。なぜ「確実」なのかと問われれば、証拠が空海さんのメモ書きという形で現存しているからです。わたしはこれを、トーハクの特別展『神護寺』で見てきたんですよ。
そのメモ書きは、国宝に指定されている《灌頂暦名(かんじょうれきみょう)》です。空海さんが、高雄山寺(後の神護寺)で、真言密教の灌頂を授けた人の名前を記した名簿です。
灌頂は、授ける人と会わなければ行えません。そして《灌頂暦名》には、最澄さんの名前もしっかりと……空海さんの手書きで……記してありました。感動( ; ; )。つまりは空海さんと最澄さんが、高雄山寺で出会ったんです……またまた感動(T . T)。
でも、それって「え?」ってなりますよね。最澄さんが、空海さんに「わたしを弟子にしてください!」とお願いしたってことですから。
この時、最澄さんは46歳前後で、空海さんは36歳前後です。まぁ、こういう世界では歳は関係ないかもしれませんが、最澄さんは天皇からも認められている「天台宗」のトップですよ。それが他宗に頭を下げて教えを請うというのは……なかなかできないことですよね。
きっと最澄さんは、多くの弟子たちに止められたと思います。だって、唐では“いちおう”ですけど、阿闍梨から、密教を伝法されているんですから。
普通の人なら「このままでいいや」って思うだろうし、弟子たちも「空海さんに頭を下げるなんて、やめましょうよ」って言うに違いありません。でも最澄さんは、弟子たちに止められたからこそ、むしろ余計にこだわったかもしれません。なぜなら、最澄さんが、空海さんから密教を学ぶ姿勢を示さなければ、それ以降に弟子たちが「密教を学ばなければ」という気持ちにはならないでしょうから。
もう仏教トレンドは明らかに密教なのです……それを天台宗に、比叡山に取り入れなければならない……そういう使命感があったのではないかなと、わたしは思います。
この空海さんが最澄さんにたいして灌頂した時に、使われたかもしれない、東寺=教王護国寺蔵の国宝《金銅密教法具(金剛盤・五鈷鈴・五鈷杵)》という密教アイテムや、金剛界と胎蔵界の巨大な曼荼羅……《両界曼荼羅(高雄曼荼羅)》……も、特別展『神護寺』で見てきました。もちろん、この最澄さん灌頂の時に使っていたとは断言できませんが、どちらも密教の灌頂には必須のもの。そして、前者は空海が中国・唐から持ち帰ってきたものと言われ、後者は曼荼羅制作に空海さんも関わったと伝えられているものです。この時に絶対に使われなかった……とも言えないじゃないですか。
その「灌頂」ですが……密教のライセンス制度みたいなものは……ややこしいんです。いくつかのランクがあるらしく、この時に最澄さんが空海さんから授かった灌頂は、初級者用とか体験者用みたいなものだったと言われています。
その後、最澄さんは「もっと上級者コースの灌頂をお願いしたい」と頼み込みますが、空海さんのもとで時間を作って修行するわけでもない最澄さんに、空海さんはそれ以上の灌頂は授けられないとします。そりゃそうだ……とは思いますよね。灌頂=ライセンス制度の信頼性が、いきなり崩されてしまいますから。
それでも最澄さんは食い下がります。「上級者コースの灌頂が無理ならば、密教の書籍を貸していただきたい」と。それからは、2人の間で経典のやり取り……ではなく、空海さんが貸して貸して……最澄さんが借りて借りて……という感じだったようです。最澄さんが何度借りられたか分かりませんが、何度目かの時に、空海さんが「クレクレばっかりやん! もうダメ!」と言ったとか言わなかったとか……さらに、空海さんのところに派遣されていた最澄さんの弟子……なのかなぁ……怪しいなぁ……という泰範さんが、空海さんに心酔して比叡山に戻らなくなってしまいました。最澄さんは泰範さんに「帰ってきなさい」……「帰ってきなよ」……「お願いだから帰ってきてくれ」……と、何度も手紙を送っています。
トーハクの特別展『神護寺』では、この空海さんの真筆の書が、いくつか展示されています。後期最終盤の今現在、どの書が展示されているかは、定かではありませんが、気になる方は出品リストを確認してください。また、たしか最澄の書も展示されていた気がします。
■なぜ展覧会へ行くのか?
美術展や展覧会へ行く理由はそれぞれですが、わたしの場合は、歴史上の人が、たしかに実在したというのを、感じたいからです。今回の特別展『神護寺』であれば、本などで伝え聞いているだけ……「昔、こういう人が居たらしい」というだけの空海さんや最澄さんを感じたいからです。
空海さんで言えば、生まれたのが1250年も前のことです。徳川家康や織田信長などよりもず〜っと昔で、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清少納言などよりも前の時代の人です。
本を読むだけで「空海さんが自分と同じ日本で生きていたって実感する」のって、「日本のどこかに邪馬台国があり、卑弥呼という女王が居たというのを実感する」のと同じくらいに難しいです。バーチャルなYouTuberの方が、まだしも実存感を感じられそうな気がします。
史跡を尋ねたり、今回のような展覧会へ行ったりして、空海さんが生まれた場所に立ったり、空海さんが持ち帰ったという仏具を目の前にしたりすると、じょじょに頭の中の空海さんが立ち上がって、立体で動き出すことがあります。わたしの場合は、そのために行きます。
空海さんから灌頂を授かってから約10年後に、最澄さんは亡くなりました。最澄さん56歳前後のことです。亡くなったのが、空海さんと絶交してから何年後のことか分かりませんが、それからの最澄さんは、天台宗の布教に全力を注いだことでしょう。
最澄さんが亡くなった後の天台宗は、お世辞にも、非の打ち所のない宗教団体だった……とは言えません。だって比叡山延暦寺は、どんどん政治とのつながりを増していき、武装した僧侶を置いて、平安時代半ば以降は、かつての南都諸宗のように政治活動を盛んにしていきました。また、比叡山の中でも勢力争いが熾烈だったのは、多分に仕方がないことではあれど、誇れることではないはずです。
ただし最澄さんが、天台教学だけでなく、密教も坐禅も、もちろん神道も内包させようとしたこともあり、比叡山延暦寺は、今でいう総合大学のようなアカデミックな場所になったことも事実です。
司馬遼太郎さんも書いていましたが、よく言われるのが、真言密教を理論的に完成させてから亡くなった(入寂した)空海さんと、色々手をつけたけどどれも中途半端な状態で亡くなった(入寂した)最澄さん……ということです。彼らの人生だけを見れば、空海さんの方が優れているように思えますが……そのおかげで、最澄さんの比叡山延暦寺……天台宗からは、後に続々と優秀な僧侶を生み出されました。最澄さんが、どれも中途半端な状態で亡くなったので、弟子たちが頑張らざるを得なかったのでしょう。
特に平安後期から鎌倉時代にかけては、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)を輩出しました。さらに比叡山卒業生ではありませんが、一遍(時宗)や日蓮(日蓮宗)も天台宗寺院の出身です。
一方、真言密教の空海さんは、様々な場所に拠点を作りました。まず、空海さんが真言密教を体系化していった時代に過ごした高雄山寺は、まさに「真言密教が始まった寺」と言って良いでしょう。そして816年には高野山が下賜されて、819年にはそこに金剛峯寺を建立します。けれど空海さんを篤く信頼していた嵯峨天皇が、空海さんを平安京に留めおこうとしたのか、823年には東寺を下賜します(のちに教王護国寺と改称)。同年に、嵯峨天皇が譲位……空海さんの京都での滞在先だった高雄山寺の麓にお引越し(嵯峨院)……院内の持仏堂を空海さんが手掛けています。さらに翌824年には、高雄山寺と神願寺を合併して、神護寺(神護国祚真言寺)としています(寺格が上がったと言えます)。そして、空海さんが亡くなった後の876年のことですが、嵯峨院が大覚寺になります。これらの寺院が、それぞれ発展していきました。
こうして大きな拠点を分散させたためか……権力を分散したためか……真言宗に、それほどダークなイメージはありません。もちろん、根来寺のように僧兵を集めていた真言宗系(新義真言宗)の寺院はありましたけれど……空海の時代からはだいぶ後の、室町・戦国時代のことですしね。
さて……最後に、話を無理やりにですが、特別展『神護寺』に戻すと……優れたいくつもの仏像が見られるのも、魅力の一つでした。高雄山寺と神願寺が合併して、名前が神護寺に変わった際……その神願寺から来たという国宝《薬師如来立像》は、「怖い顔の仏像」として、かなり人気です。造形的に何が人気なのかは、わたしには定かではありませんが、いずれにしても、空海も同じ像を見上げただろうと考えると、感動モノです。
展覧会では、その前に見ることになる、同じく国宝の《五大虚空蔵菩薩坐像》の方が、わたしは見る時間を多く割きました。
これら国宝《薬師如来立像》と《五大虚空蔵菩薩坐像》……それに先述した空海さんにゆかりのある品々などを見に行くだけでも、行く価値の十二分にある特別展だと感じました。
また、いま見られるか分かりませんが……調べるのめんどうなので…すみません…、国宝の《釈迦如来像》も、見られたら良かったなぁと思います。(8月14日から、おそらく2週間の展示)。
ほかにも源頼朝や、僧侶の文覚さんとの関連を示すものなど……まだ展示されているでしょうか……?
ここまでに記した通り、歴史も由緒もある寺院のため、語るべきことが多すぎますね。キリがないのでこのへんで終わりにします。
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