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【悪魔と独身女性とワインバー】 映画『死霊館ユニバース』

映画『死霊館』シリーズ(このシリーズの世界線を「死霊館ユニバース」と呼びます)の大ファンです。

私にとってこのシリーズは、
生きていく上で重要な示唆が散りばめられている「生きるためのバイブル」の一つなのです。

位置付けとしては、映画『エクソシスト』の現代版とも言えます。

すなわち、テクノロジーは進化しても悪魔は居る、という事です。

邪悪な人間、良くない場所、澱んだ空気、濁った水、湿気、己の精神的な弱点等々、には気をつけなければいけません。

さもなくば、命を落とします。

例えば、邪悪な人間は「邪悪な顔」で近づいてくる訳ではありません。

邪悪な人間とは「〇〇ちゃんは〇〇ちゃんのままで良いんだよ」と「全肯定する」人間の事を言います。

私が「女二人連れ」に近寄らないのは、片方が片方の不幸を「深層心理」で望んでいるからです。

「〇〇ちゃん、ずっと大好きだよ」という呪いの言葉によって、
もう一方が自分の元を離れて「成長する」ことを阻止し、永遠の幼児性に閉じ込めようとします。
「呪いの言葉」とは「一番優しい言葉」なのです。

という訳で、死霊館シリーズ最新作『死霊館 悪魔のせいなら無罪』を観ました(当時書いたテキストの蔵出しです)。

『死霊館 悪魔のせいなら無罪』マイケル・チャベス監督

またしても、大変に勉強になる映画でした。

この映画は「魔女」についてのお話です。

魔女たちの仕事は「呪い」です。

そして魔女は現代社会の中にも多数紛れ込んでいるのです。

例えば、会社組織等において、
何の生産性もなく、毎日毎日「無から問題を生み出す」のが彼女たちの仕事です。

魔女には魔女になる理由があり、それは「愛の欠如」です。

彼女たちは人から愛されることなく、「ひたすら自分の存在を主張」するだけの人生を歩んできたのです。

「キャリアを積めば!」「留学すれば!」何かが変わると信じて来たのですが、実際には無残に歳を取っただけです。

その荒んだ彼女たちの心の隙間に悪魔が忍び込むのです。

一旦取り憑いた悪魔を祓うのは困難です。

彼女たちが、彼女たちの不幸から目を背けた瞬間に、彼女たちの心はすでに壊れてしまっているからです。

つまり、ひとたび魔女になってしまったら諦めるしかないのです。

そして最後は「自分自身がかけた呪い」によって悪魔に魂を抜かれて死んで行くのです。

その構造が見事に描かれた映画でありました。

さて続きまして、
『死霊館 エンフィールド事件』を取り上げたいと思います。

やはり、
「名前」を知られる、知る、ということは、呪いがかかることであり、
逆に呪った相手を倒すことにもなる。

という教訓が心に深~く刻まれた映画でありました。

『死霊館 エンフィールド事件』ジェイムズ・ワン監督

名前が「相手」に知られたら呪いをかけられる可能性か発生します。
そして、その呪いを解除するには相手の名前を名指しするしか方法がない。
というお話です。

やはり、うかつに公衆の面前で人様の名前を呼ばないのが霊的マナーなのですね。

中目黒辺りのワインバーで見かける光景ですが、
業界人風の女性二人客の一人が店長に向かって、

「〇〇さ~ん(店長の名前)!今日のおすすめワインなんですか~?」

と「自分がこの店の常連であることをアピールするために」わざわざ店長の名前を公衆の面前に晒すシーンに出くわします。

これは何とも「躾が悪い」としか言いようがないですね。

日本では古来から、公衆の面前では「大将」「女将」と「本名で呼ばない」のが基本マナーです。

飲食界隈でなくとも、落語家や歌舞伎役者は出世するごとに名前が変わりますし、ついでに死んだら戒名に名前が変わります。

また、一般社会でも「社長」「先生」「師匠」「御隠居」「棟梁」と役職・肩書で呼ぶのが基本的なマナーです。

まあ百歩譲って愛称である、「熊さん」「八つぁん」「助さん」「角さん」、、。

そのくらい「名前」は「取扱い注意」の事案なのです。

昨今、ちょっとリベラル風味の経営者が社員に「”社長”ではなく、〇〇さんと名前で呼ぶように」とする事例を見かけますが、アレは少々品性と教養に欠けると私は思っています。

「名前を呼ばない」とは「セキュリティ」なのです。

そんな「教義」が、この映画には詰まっているのでした。

そんな訳で、
とりあえず今回は「ユニバース」から二本取り上げてみました。

ちなみに、

悪魔の手から逃れる一番の力は「家族愛」です。

完。



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