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2024年11月の記事一覧
余った時間でレディー・ガガ どうもーLa.おかきでございます
セレンディピティという映画のさわりだけ見た。なんといえばいいのか……
ここまで験担ぎを信じて生きている女に執着する男がずんのやすトークライブに髪があるバージョンに見えてしまった。いずれ有名な演技者なのだろうが、初めて見たので名前を失礼する。
またこの異常な女も異常にきれいな女だった。こちらも名前を知らんので失礼する。あとで調べてタグにでもする。
だけどマジで女と男の出会いをこんな感じにするって
ピアノ・レッスン(今年の映画)傍白
アメリカの人種史をピアノが語ってる『ピアノ・レッスン』が単なる家族の争いを描いた物語に留まらないのは、ピアノという象徴を通じてアメリカの人種史に深く切り込んでいる点だ。
舞台である1930年代のアメリカは、大恐慌の余波と人種的抑圧が色濃く残る時代。
この文脈を踏まえると、ピアノに刻まれた家族の歴史がどれだけ重い意味を持つのかが見えてくる。
1. 奴隷制の記憶が残した傷跡
家族史を彫り込んだピア
『ピアノ・レッスン(今年の映画)』「ポケモン・ショック(1998?)」
ポケモンショック的演出の極端さ『ピアノ・レッスン』における演出の中で、特に山場での「ポケモンショック」的な表現は大きなポイントだ。この一見過激な演出が、映画全体のテーマやメッセージにどう結びついているのかを考える。
1. ポケモンショック的表現とは何か
視覚的な過剰さ
「ポケモンショック」とは、視覚的な刺激が観客に直接的な衝撃を与えるような演出を指す。『ピアノ・レッスン』では、ストロボのよう
『ピアノ・レッスン(今年の映画)』遺産、家族、ギスギス、修羅場
『ピアノ・レッスン』を観てぼくが最初に感じたのは、「またか」という疲労感だった。
映画の裏にデンゼル・ワシントンの影が見えるとき、その結末には一種の覚悟が必要だ。デンゼルが裏方で関与した映画に共通するのは、視聴者の心を一切容赦せず、息苦しいまでのリアリズムと圧倒的な修羅場を提示することだ。
『フェンス』や『マ・レイニーのブラックボトム』で描かれたような、家族や社会の中でのギスギスした緊張感が、
映画を数字で評論するほど無意味なことはない
『ノクターナル・アニマルズ』論考
『ノクターナル・アニマルズ』という映画は、非常に多層的なテーマと物語構造を備えた話であり、その解釈や評価が単純な「点数」では到底語り尽くせないことを痛感する。
美と醜、愛と裏切り、復讐と救済の狭間に立つこの話は、観る者を深い考察へと誘うが、同時に強い不快感や混乱がガーンと来る点で議論を呼ぶ。
ぼくがこの映画を観て感じたことを、以下に多面的に掘り下げていく。
ルーガルー人狼を探せのかんそう2
世代間ギャップをテーマにすること自体が、もう「一つの古い題材」に見える。現代の設定に古い題材を重ねて「世代間のズレ」とか「断絶」を扱うっていうのはわかりやすいテーマに見えるけど、「対立軸」を無理やり作り上げてそれを並べ立ててるだけだ。
この映画もそうだが、現代の若者と旧世代をキャラクターとしてぶつけるような設定が、すでにお決まりのパターンだらけなんじゃないか。「インスタで稼ごうとする娘」と「その
ルーガルー人狼を探せのかんそう/最新の映画でクソ古い題材を扱ってやることが世代間ギャップだった
もう題名ですべてを言ってしまったので以下からは読む意味がない。ぼくも書く意味がない。
ぼくは見る映画にどんな少しでも内容ばれをされると許せないので、ジャン・レノのファンに対してだけ必要と思われる内容ばれを今から書く。
それはジャン・レノが痴呆の男を演じてるということだ。あの精悍なジャン・レノはもういないが、それはぼくがまだ半分しか見ていないからかも知れない。
簡単に人が異世界に行く方法として
太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第39話 おま5×転3×打た取れ
浅荷と湖を見つめる静かな時間が、俺にとってはどこか居心地の悪いものに感じ始めていた。
俺は彼女に救いを求めているかもしれない。だが考えてみればそれは彼女が抱える「気配」に甘えているだけなんじゃないか?自分の心の隙間を埋めようとしているだけで、その隙間を埋める理由や覚悟を持っていないことに気づかされる。
一方あのジョーカーを見に行ったコメディアンは違った。
彼の儀式には確固とした「目的」があっ