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毎朝6:00の文章ができるまで


2024年9月14日(土)朝の6:00になりました。

ぼくは時間よりも、何を何回したかという回数のほうが大事じゃないかと思う。

どうも、高倉大希です。




毎朝6:00投稿をはじめて、今日でちょうど623日が経過しました。

書くことがなくて困る、なんてことはありません。


なぜなら、自分のことを書いているわけではないからです。

自分の内側にあるものなんて、せいぜい限られています。


広い世界のほんの一部を頂戴して、テキストに落とします。

あまりにも広いので、どれだけ切り取ろうがなくなることはありません。


本物の教育には、自分には知らないことが(たくさん)あると知ることも含まれている。持っている知識だけでなく、持っていない知識に目を向ける方法を身につけるのだ。そのためには思いあがりを捨てなければならない。知らないことは知らないと、認める必要がある。

スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック(2021)「知ってるつもり学」早川書房


日々の生活を送りながら、ふたつのメモを動かしています。

ひとつは思ったことの走り書き、もうひとつは読んだ本の記録です。


思ったことの走り書きメモには、雑多な言葉が並んでいます。

最新のメモは、「点滅する信号で止まる余裕をもって暮らしていたい」でした。


読んだ本の記録メモには、気になった文章をすべて転記しています。

最新のメモは、この本のこんな文章でした。


うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり「命がけ」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするなど、甘すぎるのである。(中略)私はせっかく生まれてきたのだから、死ぬまでには、ときどき「命がけ」のことをやってみないと面白くないのでは、と思っている。

河合隼雄(1998)「こころの処方箋」新潮社


走り書きメモに残した言葉を、そのままタイトルにすることもあります。

はたまた、つかわずに長らく眠らせている言葉もあります。


本の記録メモも、同様です。

よく引っ張り出してくる文章もあれば、そうでない文章もあります。


言ってしまえば、書きはじめる時点で素材はたっぷりあるわけです。

書くときにやることは、それらをひとつの文章に編集することくらいです。


ことばを使うということは、究極の編集行為のようだと感じています。つまり、ことばというのは、視覚や聴覚や触覚など、あまたある外界の刺激のある部分をぎゅっと抜き出して表現します。

為末大、今井むつみ(2023)「言葉、身体、学び」扶桑社


毎朝6:00の文章ができるまでに、やっていることはこれだけです。

書くときに生まれる余計なコストが、ほとんどないようにできています。


べつに書くために、メモを残しているわけではありません。

その時々の思いや読んだ本のことを、忘れたくないからメモをします。


そんなメモたちを編集して、毎朝の文章が完成します。

これが、5:59までの経緯です。






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高倉大希
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